トルストイ「イワンのばかとそのふたりの兄弟」読了。
本作「イワンのばかとそのふたりの兄弟」は、1886年(明治19年)に発表された短篇小説である。
この年、著者は58歳だった。
愚直に汗を流すイワンのライフスタイル
本作「イワンのばか」は、まるで、♪必ず最後に愛は勝つ~みたいな物語である。
ただし、最後に勝つのは「愛」ではなくて「ばか」であり、この場合の「ばか」とは、欲を持たない愚直な人間のことを示す。
日本には「据え膳喰わぬは男の恥」ということわざがあるように、目の前で美しい女性が準備して待っているのに手を出さない男のことを、歴史的に「ばかなやつ」と呼ぶ。
この物語の主人公<イワン>は、そういう意味で底抜けの「ばか」だった。
軍人のセミューンはそこで言った。「おれの奥さんが、おまえのにおいがいやだそうだから、おまえは入り口の間でたべたらよかろう」「ああいいとも、それに、わしはもう夜飼いに出る時間だよ──牝馬にも飼料をくれなきゃならんし」(レフ・トルストイ「イワンのばかとそのふたりの兄弟」中村白葉・訳)
戦争の好きな長男や、金儲けの好きな次男に、言いように利用されながらも、すべてを無条件に受け入れていく。
『ノルウェイの森』の永沢さんは、目の前にチャンスが転がっているのに見過ごすわけにはいかないという信念を持って、行きずりの女の子たちとセックスを繰り返していたが、どちらかというと、人間としては永沢さんの方が、ずっと自然である。
誰だってチャンスがあれば、女の子と仲良くなりたいし、お金持ちにも偉い人にもなりたいと思う。
それが人間社会の成り立ちというもので、だからこそ、悪魔は人間の心の隙間に入り込んでくるのだが、利己的な欲というものを持たないイワンには、悪魔が入り込む隙がない。
無欲の勝利の結果、王様となった後も、イワンは自分のライフスタイルを変えずに、一人の農民であり続ける。
そのイワンのライフスタイルの根源にあるものが、すなわち「働き続けること」だった。
ただ、この国にはひとつの習慣がある――手にたこのできている人は、食卓につく権利があるが、手にたこのないものは、人の残りものを食わなければならない。(レフ・トルストイ「イワンのばかとそのふたりの兄弟」中村白葉・訳)
多分に啓蒙的で説教くさい感じがしないでもないが、愚直に汗を流すイワンの生き方には、現代の我々が学ぶべきところも多い。
控えめで心優しいビジネスマンのヒーロー
例えば、この物語は、現代のビジネス社会に置き換えて考えることができる。
戦争の好きな長男は、体育会出身のパワハラ系ビジネスマンで、金儲けの好きな次男は、要領よく立ち回ることの得意な戦略家的ビジネスマンである。
三男のイワンは、地道に靴をすり減らして営業活動を続ける愚直なサラリーマンで、長男や次男の後塵を拝してばかりいる。
しかし、民話の世界にあっては、こういう愚直で正直な人間こそが最後に勝ち残るものであり、こういう「愚直神話」は、控えめで心優しいビジネスマンのヒーローとなり得るだろう。
「なんのために」と彼らは言うのだった。「おまえさんがたはわしらをいじめるのかね? なんのために、わしらのものを無駄にしてしまうんだね? もしおまえさんに入り用だというなら、みんな持って行って使ったらええだに」(レフ・トルストイ「イワンのばかとそのふたりの兄弟」中村白葉・訳)
ただし、注意しなければならないことは、イワンは、ただ無欲であっただけではなく、徹底的に無欲であり続けたということである。
現代の競争社会にあって、そもそも競争にすら参加しないイワンの生き方を真似することは難しいし、イワン型ビジネスマンが、必ずしも成功するとも言い切れないとの不安も残る。
大切なことは、むしろ、イワンが愚直に働き続けたということだろう。
イワンの妻が彼に言った。「あなた、気を悪くしないで下さい、うちの妹は、手にたこのできていない人は食卓へつかせないことにしているのです。もう少し待って、いまにほかの人がたべてしまったら、その時残ったものをおたべなさい」(レフ・トルストイ「イワンのばかとそのふたりの兄弟」中村白葉・訳)
本作「イワンのばか」が与えてくれる教訓は、身を粉にして働き続けることの尊さである。
出世とか評価とか些末なものにとらわれることなく、目の前の畑を耕し続けること。
成功というのは、自ずから、その向こう側へ見えてくるものなのではないだろうか。
もしかすると、現代の我々ビジネスマンに必要なことは、今こそイワンのような「ばか」になることなのかもしれない。
作品名:イワンのばかとそのふたりの兄弟
著者:レフ・トルストイ
訳者:中村白葉
書名:トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇
発行:1966/04/16 改版
出版社:岩波文庫