J.D.サリンジャー「フラニーとゾーイー」読了。
本作「フラニーとゾーイー」は、「フラニー」と「ゾーイ」という二つの短篇小説によって構成されている。
前半「フラニー」は、1955年(昭和30年)1月『ザ・ニューヨーカー』に発表され、後半「ゾーイー」は、1957年(昭和32年)5月『ザ・ニューヨーカー』に発表された。
単行本は『フラニーとゾーイー』として一冊にまとめられ、1961年(昭和36年)9月にリトル・ブラウン社から刊行されている。
原題は『Franny and Zooey』。
この年、著者は42歳だった。
純粋で痛々しいまでの自己批判
『ライ麦畑でつかまえて』で有名なサリンジャーには、「グラース・サーガ(グラース家の物語)」と呼ばれる一連の作品群がある。
短篇小説集『ナイン・ストーリーズ』も、このグラス・サーガの一端を担う作品集だが、グラース家を全体として把握するのにちょうどいい作品が、この『フラニーとゾーイー』である(特に後半の「ゾーイー」)。
なぜなら、「ゾーイー」の冒頭では、グラース家の七人の子どもたちの概要が「注釈」の形で添えられているし、「ゾーイー」という物語そのものが、グラース一家の人々による物語だからだ。
もっとも、このグラス家の物語は、「サザエさん一家」や、庄野潤三の家族物語のように楽しく読めるものではない。
グラース家は、何やら複雑な事情を抱えた一族であり、家族のそれぞれが何かしらの問題と向き合いながら生きていると思われる(そして、それは現代社会では珍しくない)。
家族のそれぞれが向き合っている「問題」こそ、サリンジャーが「グラース・サーガ」として書き続けていきたかった物語なのだろう。
本作『フラニーとゾーイー』の主人公は、七人兄弟の末っ子フラニーである。
20歳の女子大生であるフラニーは、グラース一家の間違いなくヒロイン的な存在であり、聡明叡智で見た目も麗しいという、極めて魅力的な女の子だ。
しかし彼女が第一級の美人であることは誰の目にも明らかだったろう。肌は美しく、目鼻だちは繊細でいて、実にはっきりしている。(サリンジャー「ゾーイー」野崎孝・訳)
このフラニーが、大学生活でナーバス・ブレイクダウンになってしまう。
メンタルを病んだ彼女を、どうにかして家族みんなで救済しようというのが、この物語の大きなストーリーだ。
フラニーが神経症になってしまった原因は、大学生活で見たエゴの塊みたいな知識人たちの生き様にある。
「ちがうわ」と、フラニーは言った。「それもたまんないことの一つなの。つまり、あの人たちは本当の詩人じゃないってこと。あの人たちはジャンジャン出版されたりアンソロジーに入ったりする詩を書いてる人っていうだけのことよ。でも詩人じゃないわ」(サリンジャー「フラニー」野崎孝・訳)
サッフォー(古代ギリシアの女性詩人で「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」の詩がある)を愛するフラニーは、詩人ぶった大学教授たちが許せない。
さらに、周りに群がる自称インテリの大学生たちにも、うんざりしている。
「あの人たちって、カッコよく見せようとするでしょ。それがわたしには分かるのよ。わたしの寮にいる女の子の、本当にいやらしいゴシップを聞かせようとする。こっちに向かって、この夏何をやったかなんて、そんなことを訊きたがるときもあるし、椅子を引っぱってきて、その上に逆向きにまたがって、すごく大人しい声で自慢話を始めたり、それから、すごくおだやかな、さりげない調子で、有名人を知ってるってことを匂わせて、妙な自己宣伝をやりだすんだわ」(サリンジャー「フラニー」野崎孝・訳)
もちろん、フラニーの週末デートのお相手レーン・クーテルも、そんな意識高い系男子の一人だったから、この週末デートがうまくいくはずはない。
自分の(素晴らしい)論文を読ませたいレーンと、自分がハマっている宗教の話をしたいフラニーとのすれ違いは顕著で、結局、レストランで意識を失ったフラニーは、土曜日のデートを途中でキャンセルして、帰宅することになる。
せっかくの週末を台無しにされたレーンには散々のランチタイムだったが、フラニーにとって何よりも辛いことは、自分自身こそ、そんなエゴにまみれた人間であるということを、誰よりも理解しているということだった。
「エゴ、エゴ、エゴで、もううんざり。わたしのエゴもみんなのエゴも。誰も彼も、何でもいいからものになりたい、人目に立つようなことかなんかをやりたい。人から興味を持たれるような人間になりたいって、そればっかしなんだもの、わたしはうんざり」(サリンジャー「フラニー」野崎孝・訳)
彼女にとって、演劇はエゴの発散であり、大学は知識のための知識を蓄積するだけのイカレて狂った施設である。
フラニーによる痛々しいまでの自己批判は、この物語の大きなポイントで、純粋なフラニーの姿には、率直に胸を打たれる。
もしも、「フラニーゾーイ症候群」というものがあるのだとしたら、それは人間の利己的な部分に我慢できなくなった若者の、極めて自然な過敏反応と言えるのではないだろうか(最近の「蛙化現象」もその一例と思われる)。
もちろん、このような気づきこそ、フラニーの繊細な性格を表しているものであり、だからこそ、彼女は、眠ることも食べることもできないくらいに病んでしまうのだ。
救いを求めてフラニーは宗教に走る。
それが『巡礼の道』というロシア無名の百姓が書いた本で、その本こそ、彼女の長兄であり、今は亡きシーモアが愛読していたものだった。
現代社会が抱える苦悩を宗教的に解決する
ここに登場するシーモア・グラースは、短篇集『ナイン・ストーリーズ』の「バナナフィッシュにうってつけの日」で自殺してしまう、あの青年である。
ある意味で超越的な存在だったシーモアを、グラース家の子どもたちは崇拝していて、本作『フラニーとゾーイー』においても、シーモアは重要な役割を占めている。
落ち込んでいるフラニーを励ます役割は、同居している唯一の兄弟であるゾーイーに委ねられているが、前夜、フラニーの説得に失敗したゾーイーは、風呂の中で、かつて次兄バディから届いた長い手紙を読み返している(つまり、ゾーイーも兄たちに救いを求めている)。
シーモアが自殺したのは、三年前のちょうど今日だ。遺体を引き取りに僕がフロリダへ行ったとき、どんなことがあったか、君に話したっけか? 五時間びっしり、僕は飛行機の上で薄馬鹿みたいに泣いていたんだ。(サリンジャー「ゾーイー」野崎孝・訳)
手紙の中で、バディはシーモアについて語り、ゾーイーは、バディの手紙を通してシーモアに触れている(かわいい妹フラニーを救うために)。
だから、このちょっとした「妹救済物語」は、シーモア、バディ、ゾーイーという兄貴連中による、連係プレーの物語ということができるだろう。
とはいえ、実際に演出を考え、フラニーを説得するのは、俳優として活躍しているゾーイー一人でしかない。
母親ベシーとの浴室議論を終えたゾーイーは、居間で寝こんでいるフラニーとの長い議論に入る。
まるで議論文学とでも呼べるくらいに、この物語は、ゾーイーとフラニーとのおそろしく長い議論から成り立っている。
おまけに、その内容は極めて宗教的で、普段、宗教に縁のない読者は、間違いなく戸惑うことだろう。
しかし、本作『フラニーとゾーイー』における最も重要なテーマは、実に宗教のあり様である。
しかも、ここで言う宗教とは、メタファーでも例示でもない、純粋に宗教の物語なのだ。
「第一にだね、きみが自分じゃなくてほかの物とか人とかをとやかく言いだすときには、きみのほうがどうかしてるんだよ。きみもぼくもそうなんだ。テレビの仕事でぼくもきみとおんなじことをやっちゃうよ──自分でもそれに気がついてるよ。しかし、そいつは間違ってるんだ。問題はこっちなんだ。このことはきみに始終言ってるじゃないか。どうしてこいつが呑みこめないかなあ」(サリンジャー「ゾーイー」野崎孝・訳)
フラニーが抱える問題を、現代社会が抱える普遍的な問題に置き換えたとき(あるいは逆かもしれない)、作者サリンジャーは、その問題を宗教的に解決しようとした。
そして、この宗教的な解決手段を文学的に表現した作品こそが、この『フラニーとゾーイー』という小説だったのだ。
サリンジャー文学が難解だと言われる背景には、この宗教的な要因が大きいかもしれない。
「太っちょのオバサマ」は「お天道様」のこと
しかし、精神的な救済を求める者にとって、宗教こそが有効な救済手段になり得ると、おそらく作者サリンジャーは信じていたのだ。
そして、一連の物語の中で、サリンジャーが指し示す宗教思想は、実はさほどに異様でも特殊なものでもなかった(ここが重要だと思う)。
「彼は『太っちょのオバサマ』って誰だかぼくには言わなかったけど、それからあと放送に出るときには、いつもぼくは『太っちょのオバサマ』のために靴を磨くことにしたんだ──きみといっしょに出演したときもずっとね」(サリンジャー「ゾーイー」野崎孝・訳)
「太っちょのオバサマ」は、シーモアが遺した最大のメタファーで、彼は、誰からも見えることがない場合であっても、「太っちょのオバサマ」のために靴を磨いていけと、幼きゾーイーに指導する。
そして、この「太っちょのオバサマ」は、世界中どこにもいる存在だと、シーモアは教えてくれたのだ。
「しかし、きみにすごい秘密を一つあかしてやろう──きみ、ぼくの言うこと聴いてんのか? そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおらんのだ。その中にはタッパー教授も入るんだよ、きみ。それから何百何十っていう彼の兄弟分もそっくり。シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もどこにもおらんのだ。それがきみには分からんかね?」(サリンジャー「ゾーイー」野崎孝・訳)
このゾーイーの説得は、フラニーの胸を打つ。
むしろ、フラニーは、ゾーイーの言葉を通して、シーモアの教えに感銘を受けたのかもしれない。
さらに、ゾーイーのダメ押しの一言。
「それから──よく聴いてくれよ──この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみには分からんだろうか?……ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ」(サリンジャー「ゾーイー」野崎孝・訳)
ゾーイーの言葉で救われたフラニーが、ようやく安堵の眠りにつくことができたとき、長い物語は幕を閉じる。
「太っちょのオバサマ」の受け止めについては、様々な解釈があるだろうが、宗教的思想を除いたとしても、この物語には多くの教訓がある。
例えば、大学教授を攻撃するフラニーに、ゾーイーが言った言葉。
「しかし、ぼくの気に入らないのはだな──そして、これは実は、シーモアにもバディにも気に入るまいと思うんだが──そういう連中のことを言うときのきみの言い方なんだ。つまり、きみは、彼らが象徴してるものを軽蔑するだけじゃない──彼らそのものまでを軽蔑するんだ。それでは人身攻撃にすぎるよ」(サリンジャー「ゾーイー」野崎孝・訳)
いささか、「罪を憎んで人を憎まず」的な感じもあるが、ゾーイーの言わんとすることは、よく伝わってくる。
要は、物事の本質を見極めろ、ということだ。
若くて純粋なフラニーには、見えない世界が、まだあったのだろう。
僕は「太っちょのオバサマ」を「自分自身のこと」として読んだ。
つまり、誰からも見えない場所で履く靴を磨くのは、誰のためでもない、自分のために磨くことなんだ、と。
古くから日本では、「太っちょのオバサマ」のことを「お天道様が見ているよ」と言った(「おてんとさま」と読む)。
誰も見ていないと思っても、実は自分自身だけは見ている。
自分自身というのは、心の奥底深いところに潜んでいる、自分も知らない「もう一人の自分」のことだ(村上春樹的に言うと、それは「井戸の底」にいる)。
利己主義がまかり通る汚い世の中で(少なくとも自分はそう信じている若者たちの)自分を貶めないための生き方こそが、「太っちょのオバサマ」ではなかっただろうか。
結局、現代社会の闇を批判しているようで、この物語が批判しているのは、そこで暮らす一人一人の人間の生き方だ(つまり、一人の読者である僕自身のことだ)。
そう考えたとき、この物語から得られる教訓は多い。
今フラニーが苦しんでいる道は、おそらく、シーモアやバディや、そしてゾーイー自身も、かつて通ってきたはずの道だ。
精神的な苦悩を、宗教的思想の世代間継承で乗り越えようとする物語が、この『フラニーとゾーイー』という物語だったということが言えるかもしれない。
それにしても、野崎孝の訳文はやっぱりいい。
饒舌なゾーイーの言葉を、しっかりとリズムに乗せて、流れるような日本語に翻訳してくれている。
フラニーを説得し終えたゾーイーの最後の言葉は「もうこれ以上喋れないよ、きみ」で、この短い台詞に、ゾーイーのやり切った感が現れている。
ちなみに、村上春樹訳『フラニーとズーイ』では「僕はもうこれ以上話せないよ、ほんとに」で、若干の説明臭さがあってたどたどしい。
ゾーイーがフラニーに「きみ」とか「カワイコちゃん」とか呼びかけるところも、兄妹間の親密な関係性が示唆されているようでいい。
「ねえ、僕の話を聞いているかい?」(村上春樹)よりも、「きみ、ぼくの言うこと聴いてんのか?」(野崎孝)の方が、生き生きとしているし、何より兄貴っぽい。
兄貴と妹の物語だからこそ、翻訳文による受け止め方への影響は大きいのではないだろうか。
青春時代、人生に迷ったときには、ぜひ読んでおきたい小説の一つである。
書名:フラニーとゾーイー
著者:J.D.サリンジャー
訳者:野崎孝
発行:1991/04/20 改版
出版社:新潮文庫