若き日のボブ・ディランを描いた青春映画『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』(2024)。
仮に、この映画に一曲だけ主題歌を付けるとしたら、それは「時代は変わる」になるのではないだろうか。
なぜなら、この映画は「変わり続ける者」を主人公としながら、変わる時代についていくことのできなかった一般大衆(つまり、我々のことだ)の姿を描いているからだ。
教祖と奉られたフォークシンガーの孤独
ボブ・ディランの「時代は変る」(The Times They Are a-Changin’)は、アルバム『時代は変わる』(1964)のタイトル曲で、新しい世代の考え方に随いていくことのできない旧世代をアイロニカルに歌い上げている。
1964年(昭和39年)の「ニューポート・フォーク・フェスティバル」で、初めてこの曲を聴いた聴衆が大絶賛するシーンは、鳥肌が立つくらいに感動的だ。
「時代が変る」ことを、主人公(ボブ・ディラン)も、フェスの観衆も、同じように共有していたのだ。
高石友也のライブ盤『受験生ブルース 高石友也 フォーク・アルバム第2集』には、高石友也の日本語訳によって歌われた「時代は変る」が収録されている(1968年1月12日大阪サンケイ・ホール)。
今が昔になるように
線は引かれてコースは決められ
秩序はすぐに乱れるでしょう
それでもあなたの
確かな道を歩んでほしい
時代は変わっていく
(高石友也「時代は変る」)
「今が昔になるように」ということを、誰よりも知っていたのは、「時代は変る」を作ったボブ・ディラン自身だった。
新しい自分を探し続けた(変わり続けた)ボブ・ディランは、翌年(1965年)の「ニューポート・フォーク・フェスティバル」のステージに、エレキギターを持って登場し、新曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」を熱演するが、「風に吹かれて」や「時代は変る」を求める観衆の強烈な野次を浴びて退散する(「裏切り者(ユダ)!」)。
フォークギターを持って再登場したディランが最後に歌った曲は「ベイビー・ブルー」だった。
きみのドアをどんどん叩いている浮浪者
きみが前に着ていた服を着て立っている
マッチをまた一本擦って、新しく始めるんだ
もう全部終わりなんだよ、ベイビー・ブルー
(ボブ・ディラン「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」中川五郎・訳)
フォークシンガー(ボブ・ディラン)の登場に、観衆は喝采を送るが、彼らは、自分たちが「きみが前に着ていた服を着て立っている浮浪者」であることに、気づくことができない。
前年「時代は変る」に共感した観衆たちは、変わる時代にも、変わるボブ・ディランにも、付いていくことができなかったのだ(アラン・ローマックスは、その象徴として描かれている)。
映画タイトル「A COMPLETE UNKNOWN」は、「ライク・ア・ローリング・ストーン」の一節から引用されたものだ(「♪Like a complete unknown~」)。
どんな気分だい
気分はどうだい
まったくのひとりぼっちで
家に帰るあてもなく
誰からも相手にされず
転がる石のように生きるのは?
(ボブ・ディラン「ライク・ア・ローリング・ストーン」中川五郎・訳)
オリジナル・サウンドトラックには、対訳の歌詞が収録されているが、ボブ・ディランの作品の日本語翻訳を中川五郎が担当している。
1960年代末期の反戦フォークブームの時代に活躍した中川五郎のコメントは、無料のリーフレットで読むことができる。
映画は1960年代前半のフォーク・シーンをリアルに描く。そっくりだけど微妙に違う。その微妙なズレが逆に真実を浮かびあがらせる痛快な作品だ。(中川五郎)
中川五郎の上に、友部正人のコメントがある。
この映画を見て「ライク・ア・ローリング・ストーン」が、ぼくをここまで連れて来たんだなと思いました。そしてニセモノのボブ・ディランにとても興奮しました。ニセモノの彼こそ本物なのだと思いました。(友部正人)
友部正人の「ニセモノの彼こそ本物なのだと思いました」というコメントは、ボブ・ディラン本人のツイートに通じるものがある。
ティミーはすばらしい俳優だから、きっと僕の役を完璧に演じてくれると思うよ。若い僕でもいい。他の僕でもいい。(ボブ・ディラン『名もなき者』劇場パンフレットムックより)
「別の僕でもいい」というディランのつぶやきは、映画の中のボブ・ディランが、「ニセモノだけれど本物である」ことを示唆している。
そこに、この映画のリアリティがあると言っていい。
友部正人は、かつて「ボブディランなんて知らない」と歌った(アルバム『誰も僕の絵を描けないだろう』収録の「ぼくは海になんてなりたくない」)。
ボブディランなんて知らない
知っているのは音楽好きの若いアメリカ人
僕はその若さだけ信じてた
ボブディランなんて知らない
知っているのは
ボブディランのような君だけさ
ぼくはその若さだけ信じてる
(友部正人「ぼくは海になんてなりたくない」)
「日本のボブ・ディラン」と呼ばれることへの抵抗感が、この歌にはある。
その抵抗感は、常に新しい自分を探し続けた(変わり続けた)ボブ・ディラン自身が抱えていたものかもしれない。
アメリカのボブ・ディランも、日本のボブ・ディランも、聴衆が求める「ボブ・ディランという亡霊」にすっかりと消耗していたのだ。
そして、ボブ・ディランが、ボブ・ディランという殻をぶち破った曲が、まさに「ライク・ア・ローリング・ストーン」だった。
変わり続けるミュージシャンと、変わることのできない大衆との対立がそこにはある。
『名もなき者(A COMPLETE UNKNOWN)』というタイトルには、教祖と奉られたフォークシンガーの孤独が込められていたのかもしれない。
「変わらないこと」を恐れたフォークシンガー
1961年(昭和36年)から1965年(昭和40年)まで、ボブ・ディランは5枚のアルバムを発表している。
デビューアルバム『ボブ・ディラン』(1962)は、「朝日のあたる家」など、スタンダードなフォークソングが中心で、オリジナルは「ウディに捧げる歌」と「ニューヨークを語る」の2曲のみ。
ヘイヘイ、ウディ
これはあんたに捧げる歌
へんてこな過去の世界に僕もいる
わずらい、飢えて、疲れて、ズタズタ
もう死にそうな
生まれてもいないみたいな
あんたの世界に
(ボブ・ディラン「ウディに捧げる歌」佐藤良明・訳)
アメリカのフォークシンガーの原点とも言うべき、ウディ・ガスリーに対する畏敬が、そこでは歌われている。
映画の中で何度も流れる「ダスト・ボウル・バラッズ」は、1940年(昭和25年)のアルバム『Dust Bowl Ballads』に収録された作品だ。
日本では、高田渡がウディ・ガスリーの信奉者として知られている(日本のウディ・ガスリー)。
「この世に住む家とてなく」は、ウディ・ガスリー「I Ain’t Got No Home」(1938)の日本語カバー(『汽車が田舎を通るそのとき』収録)。
帰る巣がないさすらうおいら
街から街へのその日暮し
心休まるところがないのさ
この世に住み家がないからよ
(高田渡「この世に住み家とてなく」)
ディランが入院中のウディを見舞ったとき、偶然にピート・シーガーが居合わせたという設定もいい(実話とは異なるらしいが)。
2枚目のアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』は、1963年(昭和38年)リリース。
当時の恋人(スーズ・ロトロ)と腕をつないでグリニッジ・ヴィレッジを歩いているボブ・ディランの写真が、ジャケットに使用されている。
映画『名もなき者』は、基本的にほとんどの登場人物が実名で登場しているが、エル・ファニング演じる恋人(シルヴィ・ルッソ)のみ名前が変えられている。
ディランの恋人(スーズ・ロトロ)については、自叙伝『グリニッチヴィレッジの青春』(2010)に詳しい。
名曲の多い『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』からは、「風に吹かれて」「北国の少女」「戦争の親玉」「はげしい雨が降る」「くよくよするなよ」などが、映画の中にも登場した。
代表曲「風に吹かれて」は、忌野清志郎率いるRCサクセションの『カバーズ』(1988)で有名。
どれだけ遠くまで歩けば大人になれるの?
どれだけ金を払えば満足できるの?
どれだけミサイルが飛んだら戦争が終わるの?
その答えは風の中さ 風が知っているだけさ
(RCサクセション「風に吹かれて」忌野清志郎・訳)
忌野清志郎は、ロックやソウルだけではなく、フォークソングのカバーにも良い曲が多い。
キューバ危機(1962)の緊迫感の中で歌われているのは「戦争の親玉」だ。
名もつけられずに死んでいく子供
かたわのままで生まれる子供
そんな恐怖をまきちらす
おまえにゃ血なぞ流れちゃいない
あんたはおいらにきっと言うだろう
世間知らずと まだ若すぎると
でもひとつだけ言えることは
人を殺すことはゆるせない
(岡林信康「戦争の親玉」高石友也・訳)
岡林信康が歌う「戦争の親玉」(1969)は、高石友也の日本語訳によるもの(アルバム『わたしを断罪せよ』収録)。
1960年代の日本において、高石友也は、ボブ・ディランの良きエバンジェリストだったのだ。
そもそも、ボブ・ディランを見出したピート・シーガーとも親交の深かった高石友也は、アメリカのフォークシーンにも敏感だったのだろう。
映画のピート・シーガーが楽しくシングアウトする「ウィモエ」は、1952年(昭和37年)にウィーヴァーズがヒットさせた曲で、ボブ・ディランの時代(1961年)には、トーケンズが「ライオンは寝ている」のタイトルで大ヒットさせている。
ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ボブ・ディランというフォーク三世代が、この映画の大きな柱となっているが、ウディ・ガスリーは既に歌うことができない状態だった(ハンチントン病)。
「はげしい雨が降る」は、村上春樹の長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で重要な役割を果たしている。
私はこれで私の失ったものをとり戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深い眠りに身をまかせた。ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた。(村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」)
長い長い物語の最後の一行が「ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた」だったという事実は、かなり印象的と言える。
「くよくよするなよ」(Don’t Think Twice, It’s All Right)は、友部正人が日本語訳で歌っている(1992年のシングル「Love Me Tender」のカップリング)。
今さら考えこんでみたって
もう手遅れよ
今さら考えこんでみたって
わかりっこないわ
夜明けのおんどりが鳴くころには
あなたのそばから消えてるわ
誰のせいなのか わかるでしょう
でも、もうあんまりくよくよしないでね
(友部正人「ドント・シンク・トゥワイス・イッツ・オールライト」)
ただし、友部正人の「くよくよしないで」は、ボブ・ディランよりも、ランブリング・ジャック・エリオットのイメージが強い。
「♪いつまでもジャックと一緒にいたかった~」と歌った「夢のカリフォルニア」に「♪はてしない顔がまんじゅうのように笑って、ドント・シンク・トゥワイスを歌い始める~」という歌詞があるからだろう(アルバム『にんじん』収録)。
3枚目『時代は変る』は、1964年(昭和39年)の発表で、社会派フォークシンガー(ボブ・ディラン)の立場を鮮明に打ち出した。
アルバム中の「ノース・カントリー・ブルース」を、中川五郎は「受験生ブルース」という日本語訳に替えて歌った。
おいで皆さん 聞いとくれ
ボクは悲しい受験生
砂をかむよな味気ない
ボクの話しを聞いとくれ
大事な青春むだにして
紙切れ一枚に身をたくす
まるで河原の枯すすき
こんな受験生に誰がした
(高石友也「受験生ブルース」)
後に、高石友也がオリジナルのメロディをつけて、大ヒットさせた。
元は、「ボロ・ディラン」こと真崎義博が、「炭坑街ブルース」という日本語訳で歌っていたものに、中川五郎が新しい歌詞を乗せたものらしい。
真崎義博「炭坑街ブルース」は、コンピ盤『続 関西フォークの歴史 1966-1974』に収録されている。
1964年(昭和39年)には、4枚目『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』もリリースされた。
「My Back Pages」は、真心ブラザーズの日本語カバーでも有名(アルバム『KING OF ROCK』収録)。
白か黒しか
この世にはないと思っていたよ
誰よりも早くいい席で
いい景色がみたかったんだ
僕を好きだと言ってくれた
女たちもどこかへ消えた
あのころの僕より
今の方がずっと若いさ
(真心ブラザーズ「マイ・バック・ページ」)
映画『名もなき者』では、「♪僕を好きだと言ってくれた女たちもどこかへ消えた~」と歌われた女性たちとの恋愛模様が中心的なストーリーとなっている。
特に、1965年(昭和40年)のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ボブ・ディランとジョーン・バエズが「悲しきベイブ」をデュエットしている場面を見て、耐えられなくなったシルヴィ(エル・ファニング)が泣きながら会場を去っていくシーンは切ない。
おれの窓から離れてくれ
ゆっくりでいい、去ってくれ
きみの求める男は、ベイブ
おれじゃないっていうことさ
そういう男じゃないんだ、おれは
ノー、ノー、ノー
違うぜ、ベイブ
求める男はおれじゃない
(ボブ・ディラン「違う、おれじゃない」佐藤良明・訳)
エル・ファニングは、ウディ・アレンの映画『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』(2019)でも、ティモシー・シャラメの恋人役を務めているが、今回のシルヴィ役の方が健気でよかった。
そして、5枚目のアルバムが、1965年(昭和40年)発表の『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』。
浜田省吾が『My First Love(初恋)』(2005)で歌っているアルバムだ。
迷いと混乱の中 沈んでいた70年代
救ってくれたのは “Bruse Springsteen & Jackson Browne”
鐘が鳴るように蘇る “Old time Rock’n’ Roll”
心の中 叫んだ “Bringing it all back home”
(浜田省吾「My First Love(初恋)」)
コーラスでも「♪Just Like a Rolling Stone~」と歌われていて、ボブ・ディランの強い影響が窺われる。
そもそも、浜田省吾の場合、ファーストアルバム『生まれたところを遠く離れて』(1976)で、ディランのセカンドアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』を意識した写真が、ジャケットに使われていた(浜田省吾と当時の恋人=後の浜田省吾夫人=が手をつないで歩いている)。
1965年(昭和40年)の「ニューポート・フォーク・フェスティバル」で最後に歌った「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」(It’s All Over Now, Baby Blue)は、このアルバムの最後に収録されていた。
ちなみに、当時、ボブ・ディランとジョーン・バエズは23歳で、スーズ・ロトロ(映画ではシルヴィ)22歳、ピート・シーガー46歳、ウディ・ガスリーは53歳。
ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ボブ・ディランと続くフォークシンガーの系譜を縦糸として読むなら、ボブ・ディランとジョーン・バエズ、シルヴィ・ルッソの三角関係は横糸として読むことができる。
いずれにしても言えることは、ボブ・ディランは変わり続けてきた、ということだろう。
映画『情熱の航路』(1942)を観た後で、シルヴィが使う「自分を探している」という言葉に対して、ディランは「自分を探しているんじゃない、変わったんだ」と強いこだわりを見せる。
これは、その後のボブ・ディランが変わり続けていくことを予言した言葉として読むことができるのではないだろうか。
本作『名もなき者』の根底にあるのは、変わり続けていくことの難しさだ。
居心地の良い場所を見つけたとき、人は「変わること」を恐れるようになる。
しかし、ボブ・ディランは、どこまでも変わり続けた。
エレキギターは、変わり続けるボブ・ディランの、ひとつの象徴にすぎない。
おそらく、ボブ・ディランは「変わらないこと」を恐れていたのだ。
「変わらないこと」に対する抵抗感は、枠にはめられることに対する抵抗感でもある。
ハンク・ウィリアムズは、カントリーか、それとも、フォークか?
そんな議論に、ボブ・ディランは「勝手にレッテルを貼るな」と激昂する。
ハンク・ウィリアムズはハンク・ウィリアムズであり、ボブ・ディランはボブ・ディランだった。
彼らは常にオリジナルであり、聴衆の求める枠の中に留まり続けることはできなかったのだ。
ボブ・ディラン役を務めた主演(ティモシー・シャラメ)は、「僕は彼からもらい続けています」とコメントしている。
「ぜひ会ってみたいと思うし、会えたらとても光栄なことだと思います。でもそれと同じくらい、会う必要性を感じませんでした。ボブの作品と芸術の贈り物は明確にそれそのものなんです。僕は、彼からなにかほかのものを必要とする別の人間にはなりたくない」(ティモシー・シャラメ『名もなき者』劇場パンフレットムックより)
「僕は、彼からなにかほかのものを必要とする別の人間にはなりたくない」というコメントは、ボブ・ディランの音楽が完璧であることを意味している。
ボブ・ディランの音楽に解説は不要だし、ボブ・ディランの映画にも、余計な批評は必要ない、ということだろう。