松居桃楼「蟻の街のマリア」読了。
本作「蟻の街のマリア」は、戦後のバタ屋街で暮らす人々の救済活動に身を投じた女性、北原怜子の評伝である。
蟻の街に身を投じた北原怜子
物語の舞台は1950年(昭和25年)11月。
貧民窟(スラム)の慰問活動を行っているゼノ神父との出会いをきっかけに、北原怜子は<蟻の街>の存在を知る。
<蟻の街>とは、隅田川に沿った公園の中にあるバタ屋(屑屋)街で、戦災の焼け跡から運ばれてきた残土の中に、数百人の浮浪者が暮らしていた。
どの子供もみんな、「お菓子なんか、ほしくない」といった様子で、苦虫をかみつぶした顔をしていた。涙とよだれと洟をごっちゃにたらして、それをなすりつけた着物がガバガバにかたくなっていた。中には小児麻痺で手足の曲ったびっこの子もいた。また、トラホームで目がつぶれかかっている子もあった。(松居桃楼「蟻の街のマリア」)
大空襲で壊滅的な被害を受けた東京都内には、空襲被災者や傷痍軍人、外地からの引揚者などが暮らす住宅の確保が十分ではなく、彼らは、都内の至るところで浮浪者部落を形成していたのである。
蟻の街を知った怜子は、この浮浪者部落で暮らす人々の救済活動に積極的に関わるようになるが、その活動は決して容易なものではなかった。
北原怜子は1929年(昭和4年)生まれ。<蟻の街>に関わり始めたときは19歳だった。
バタ屋部落には、乞食ではないとの自尊心から、他人から施しを受けることを良しとしない人々も少なくなかったのである。
それでも怜子は、クリスマス会や誕生会、運動会などのイベントを企画し、献身的に貧しい人々の心を慰め続けた。
彼女の父親は大学教授で、決して貧しい暮らしではなかったが、部落で暮らす人々の気持ちを共有するため、彼女は、部落の子どもたちと一緒にバタ屋(屑拾い)を始める。
当初は、自宅に住みながらの<通いのバタ屋>だったが、「上から目線」の救済活動を捨て去るため、とうとう彼女自身も<蟻の街>の住人となる。
いかに身を粉にして働いたって、自分の傲慢心がそのままでは、貧しい人を助けるなんて出来る筈がない。バタヤの子を助けるには、私自身がバタヤの娘になりきるより他に途がなかったのに──。(松居桃楼「蟻の街のマリア」)
しかし、バタ屋の暮らしは、彼女の健康を蝕み、やがて、怜子は腎臓病を患ってしまう。
その頃、怜子は「蟻の街のマリア」として、既にマスコミでは有名な存在だった。
多くの浮浪者部落が、東京都によって強制的に撤去されていく中、怜子は、残りの命を「八号埋立地」への移転運動に賭ける。
昭和33年1月23日、<蟻の街のマリア>と呼ばれた北原怜子は、この世を去った。
享年28歳。
それは、蟻の街の移転問題が、東京都との間で解決を見た、その三日後のことだった。
『蟻の街のマリア』は戦後日本史の物語
現在、『蟻の街のマリア』は、キリスト教の活動の中で語られることが多いが、僕は、この話を、戦後日本史の物語として読みたいと思っている。
昭和30年代まで、行き場のない戦争被災者や引揚者たちが身を寄せ合って暮らすバタヤ部落は、日本各地にあったという。
『蟻の街のマリア』の中にも、怜子がゼノ神父と、東京中の貧民街を訪ねて回るシーンが出てくる。
二人はそれから言問橋の下のルンペンアパートを訪問した。次は、今戸中学の隣りの墓地部落に行った。どの小屋も、角塔婆を柱代わりにしたり、土饅頭の上が板敷になっている薄気味の悪いところだった。さらに二人は、本願寺の浮浪者部落をたずねた。そこは蟻の街の三杯以上も人口があり、日本一繁華な浅草の真中にありながら、何百人という人が、電灯もなければ、水道もない生活をしていた。(松居桃楼「蟻の街のマリア」)
部落の住民は、大日本帝国が始めた戦争の被害者だったが、もちろん、国は責任を取ったりしない。
むしろ、新生・日本にとって彼らは、戦後復興を妨げる厄介者に過ぎなかっただろう。
この物語は、そんな日本の戦後を、しっかりと記録している。
ちなみに、北原怜子自身も『蟻の町の子供達』(1953)という著作を遺している。
<蟻の街のマリア>と呼ばれた若い女性の姿は、あるいは、歴史の中で美化されて語られている部分があるかもしれない。
しかし、多くの市民が、戦後社会から放り出されるようにして暮らしていた、日本の歴史は事実である。
そこに、この物語の価値を認めたいと思う。
書名:松居桃楼
著者:蟻の街のマリア
発行:1958/5/15
出版社:知性社