ニセコ町「有島記念館」訪問。
有島記念館は、有島武郎生誕百年を記念して、1978年(昭和53年)4月28日、ニセコ町によって設立されたミュージアムである。
住所は、北海道虻田郡ニセコ町字有島57番地で、代表作『カインの末裔』の舞台となった「有島農場」跡地に設置されている。
有島武郎「カインの末裔」のモデルを訪ねて
有島武郎の代表作として知られる「カインの末裔」は、北海道ニセコ町が舞台となっている。
北海道の冬は空まで逼っていた。蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く胆振の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤のように跡から跡から吹き払っていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。(有島武郎「カインの末裔」)
「カインの末裔」は、1917年(大正6年)『新小説』に発表された短篇小説で、当時「ゴーリキー(ロシア)以上の作品」と呼ばれるほど、高い評価を得たらしい。
貧しい農民夫婦が「松川農場」にやって来るが、本能のままに生きる主人公(広岡仁右衛門)は、他人の嫁を寝取る、小作料を収めないなど、農場のルールを無視した自己中心的な生活を続ける。
「まだか」というあだ名の仁右衛門も、最後は、とうとう共同体からスポイルされて農場を出ていかざるを得ないという、そんなあらすじの物語だ。
ちなみに、「カイン」とは、人類最初の殺人者として神によって追放された放浪者「カイン」に由来している(『旧約聖書』の登場人物)。
笠井の娘を犯したものは――何らの証拠がないにもかかわらず――仁右衛門に相違ないときまってしまった。凡て村の中で起ったいかがわしい出来事は一つ残らず仁右衛門になすりつけられた。(有島武郎「カインの末裔」)
貧しさの中で逞しく生きる広岡仁右衛門は、1902年(明治32年)前後に有島農場へやってきた実在の人物「広岡吉次郎」がモデルと言われている。
広岡吉次郎は、明治末期に農場を無断退場したあと、事業家として小樽で成功した人らしい(昭和30年代に他界)。
「カインの末裔」の舞台となった旧・有島農場跡地には、現在、ニセコ町が運営する「有島記念館」が建てられていて、広い敷地内には、有島武郎像のほかに、「カインの末裔」冒頭部分を刻んだ文学碑もあった。
長い影を地にひいて、痩馬の手綱を取りながら、彼れは黙りこくって歩いた。大きな汚い風呂敷包と一緒に、章魚(たこ)のように頭ばかり大きい赤坊をおぶった彼れの妻は、少し跛脚(ちんば)をひきながら三、四間も離れてその跡からとぼとぼとついて行った。(有島武郎「カインの末裔」)
実際にニセコの地へ立ってみると、「カインの末裔」の情景が眼に浮んでくる。
それが、真冬で、激しい吹雪の日なら言うことはないだろう(生命の危険を感じるかもしれないが)。
「カインの末裔」の舞台(ニセコ)も、現在はすっかりと外国人にも人気の観光地となってしまったが、どうせニセコを訪れるなら、せめて「カインの末裔」くらいは読んでおきたい(青空文庫へ行けば無料で読むことができる)。
小説に出てくる「松川農場」は「有島農場」がモデルとなっているし、その名称は、有島農場に隣接する「松岡農場」に由来していることなども、現地を訪れた際には、貴重な知識となるはずだ。
主人公の広岡仁右衛門という、無知粗暴で本能のままに生きる野人は、広岡吉太郎という実在の人物をモデルとしたものである。野獣のような彼の生きかたは、狩太の大自然と異質のものではない。北海道の荒漠とした大自然の一部がこの原始人仁右衛門なのである。(坂本浩「有島武郎と北海道」)
「『カインの末裔』における狩太の農場は、それ自身が一つの主人公であると言っていい」などという解説を読むと、どうしても現地を訪れてみたくなるものだ(なにしろ、1961年7月『文学散歩』に掲載された解説文である)。
ちなみに、「狩太(かりぶと)」というのは、ニセコの旧・地名。
有島記念館の住所表示でも分かるが(ニセコ町字有島57番地)、「有島」の名前が、現在もニセコ町の地名として残っているのも興味深い。
広岡仁右衛門のモデルについては、1968年(昭和43年)に朝日新聞北海道支社から刊行された『続北海道文学散歩』でも「仁右衛門は明治三十五年ごろから有島農場にいた小作人の広岡仁三郎(本名吉太郎)をモデルにしたものと言われている」の記述があるが、有島記念館発行物では「広岡吉次郎」となっている。
農場を追い出された吉太郎は小樽市でブリキ屋を始め、晩年には天理教の信者になって見違えるほどおとなしくなっていたという。(朝日新聞北海道支社「続北海道文学散歩」)
文学散歩は、やはり、作品をしっかりと理解していた方が楽しい。
有島記念館では、有島記念館文庫1として『有島武郎ニセコ三部作』を販売しているので(800円)、現地で「カインの末裔」を読むこともできる。
有島記念館文庫1『有島武郎ニセコ三部作』
有島記念館で購入した『有島武郎ニセコ三部作』には、「カインの末裔」のほかに「親子」と「秋」が収録されている。
「親子」は、1923年(大正11年)5月『泉』に発表された短篇小説である(『泉』は、叢文閣から発行されていた、有島武郎の個人雑誌)。
北海道に農場を経営する父親と、小作人の苦しい生活に同情を寄せる息子との対立を描いた物語で、有島農場が舞台となっているが、まったくの私小説というわけではなかったらしい。
「農民をあんな惨めな状態におかなければ利益のないものなら、農場という仕事はうそですね」「お前は全体本当のことがこの世の中にあるとでも思っとるのか」父は息子の融通のきかないのにも呆れるというようにそっぽを向いてしまった。(有島武郎「親子」)
有島武郎は、この作品を発表した翌年の1924年(大正13年)に自殺しているから、子どもたちのために農場を経営していたという父親の気持ちにも、あるいは理解を寄せていたのかもしれない。
農場の監督「早田」は、有島農場の管理人「吉川銀之丞」がモデルとなっている。
物の枯れてゆく香いが空気の底に澱んで、立木の高みまではい上がっている「つたうるし」の紅葉が黒々と見えるほどに光が薄れていた。シリベシ川の川瀬の昔に揺られて、いたどりの広葉が風もないのに、かさこそと草の中に落ちた。(有島武郎「親子」)
秋のニセコを旅するときには、ぜひ読んでおきたい短篇小説だ。
子どもたちに向けて「小さき者へ」を書いた有島武郎の、亡き父に捧げる物語として読むこともできる。
最後の「秋」は、1921年(大正10年)『婦人界』に「秋(習作)」として発表された随想で、同年に刊行された有島武郎著作集第十三輯『小さな灯』に、「秋」と改題の上、収録された。
霜にうたれたポプラの葉が、しおたれながらもなお枝を離れずに、あるかないかの風にも臆病らしくそよいでいる。苅入れを終った燕麦畑の畦に添って、すくすくと丈け高く立ちならんでいるその木並みは、ニセコアン岳に沈んで行こうとする真紅な夕陽の光を受けて、ねぼけたような緑色で深い空の色から自分自身をかぼそく区切る。(有島武郎「秋」)
本作「秋」は、1920年(大正9年)10月に有島農場を訪れた際に、農場事務所の一室で書かれたもので、静かなニセコの秋をリアルに感じることができる。
有島武郎を読んだからというわけではないが、山深いニセコには、夏や冬よりも秋が一層似合うのではないだろうか。
まだ点けたてで、心を上げ切らない釣ランプは、小さく黄色い光を狐色の畳の上に落して、軽い石油の油煙の匂いが、味噌汁の匂いと一緒にほのかに私の鼻に触れる。(有島武郎「秋」)
ちなみに、このとき、岩内町の漁夫画家・木田金次郎が、有島を訪問していて、当時の様子は、木田金次郎の随筆「狩太における先生の思い出」に綴られている。
「僕は一寸仕事をするから」といって障子をしめて次の室に入って行かれると、ペンの先が原稿紙の上をカスレながら辷ってゆく音だけが、ガシガシとヘンなリズムを得て沈まるように無辺際に迫って来た夕闇の室のなかで私の耳に響いていた。(木田金次郎「狩太における先生の思い出」)
「あの美しい小品『秋』がそうして生まれて来たのだ」と、画家は回想しているが、「軽井沢によく似て居ると先生が言った。狩太」「先生はことにここの朝を美しいものだといって居た」など、有島の言葉を伝える文章もいい(北海道新聞社『「生まれ出づる悩み」と私』所収)。
北海道における有島武郎の遺構は、札幌市内に多く見られるが、実際にニセコを訪れてみると、有島の文学的背景を体感することができるような気がして楽しかった(特に父親との関係)。
有島記念館を見学した後は(入館料500円)、館内のブックカフェ「高野珈琲店」で一休み。
受付で『有島武郎ニセコ三部作』を買っておけば、おいしいコーヒーを飲みながら読書することができる。