サリンジャー「ブルー・メロディ」読了。
本作「ブルー・メロディ」は、1948年(昭和23年)9月『コスモポリタン』に発表された短編小説である。
この年、著者は29歳だった。
本国アメリカでは単行本化されていない幻の作品(日本では何度か出版されているが)。
黒人差別と平和なアメリカ社会
本作「ブルー・メロディ」は、美して悲しいジャズ小説であり、醜くて愚かな人種差別小説である。
けれども、この小説の本当のテーマは、第二次大戦でアメリカ兵たちは、誰のために戦ったのか?という、元兵士の素朴な疑問だろう。
この物語は、1944年(昭和29年)のヨーロッパ戦線を移動するアメリカ兵たちの描写から始まる。
この話はだれかへの批判でもなければ、なにかへの批判でもない。ちょっとした単純な話で、母親のアップルパイと、きんきんに冷えたビールと、ブルックリン・ドジャーズと、ラックス化粧石鹸提供のラジオ劇といったもの──簡単にいえば、われわれがそのために戦っているもの──についての話なのだ。(J.D.サリンジャー「ブルー・メロディ」金原瑞人・訳)
「簡単にいえば、われわれがそのために戦っているもの──について」、その話をするために、物語の語り手は、古い思い出を引っぱり出してくる。
この作品の構造は、サリンジャーらしく短篇小説なのに複雑だが、大枠は、ローティーンの少年と少女が出会い、恋をし、別れ、そして、15年後に再会するという、牧歌的な青春小説である。
そして、少年<ラドフォード>と少女<ペギー>が夢中になったものがジャズ音楽であり、誰よりも愛したジャズシンガーが<リダ・ルイーズ>だった。
リダ・ルイーズがその曲を歌うと、店のなかは大騒ぎになった。ペギーが激しく泣き出したので、ラドフォードが「どうしたんだよ」ときくと、ペギーがすすり上げながら「わかんない」といったので、自分も感激していたラドフォードは突然、「ペギー、大好きだ!」と口走り、ペギーがわんわん泣き始めたので、ラドフォードは彼女をうちに送っていった。(J.D.サリンジャー「ブルー・メロディ」金原瑞人・訳)
もともと、リダ・ルイーズの兄<ブラック・チャールズ>が経営するバーガ・ショップの常連だった二人は、リダ・ルイーズとも仲良しになる。
しかし、人気歌手リダ・ルイーズは、盲腸が破裂したときに、受け入れ先の病院が見つからなかったため、適切な治療を受けることができずに死んでしまう。
「あの歌手の人?」「そう! リダ・ルイーズだよ!」ラドフォードはうれしくなって、名前を大声でいった。「ごめんなさい。病院の規則で、黒人の患者は入れられないの。本当にごめんなさいね」(J.D.サリンジャー「ブルー・メロディ」金原瑞人・訳)
ブラック・チャールズが運転する自動車に乗って、一緒に病院を探し回ったラドフォードとペギーの心の中には、リダ・ルイーズの受け入れを断った病院で働く人間たちの姿が、いつまでも記憶に残っていたことだろう。
だから、ドイツ軍と戦っているときも、大戦が終わった今も、ラドフォードは考えているのだ。
俺たちは、何のために戦っているのか、と。
彼らが戦っているのは、アメリカの平和な暮らしを守るためだった。
アップルパイや冷たいビール、ブルックリン・ドジャーズ、ラックス化粧石鹸、ラジオ劇、そして、瀕死だった黒人女性の受け入れを拒否した病院の人間たち。
そんな平凡で平和な社会を守るために戦争をしたアメリカという国のおかしな謎について、ラドフォードはずっと考え続けている。
黒人の女性シンガー<リダ・ルイーズ>のモデルは、実在のジャズシンガー<ベッシー・スミス>。1937年(昭和12年)、交通事故で負傷した彼女は、黒人であるという理由で受け入れ先の病院が見つからず、いくつかの病院をたらい回しにされた末に死亡したと伝えられている。
二度と甦ることのない失われた青春の記憶
サリンジャーが出版社に持ち込んだとき、この物語は「Needle on a Scratchy Phonograph Record(雑音だらけのレコードに落とした針)」という作品タイトルだったが、雑誌掲載時に編集部が独断で「Blue Melody(ブルー・メロディ)」に変更してしまったという。
作者のサリンジャーは当然に激怒したが、物語を読んでみると、「Needle on a Scratchy Phonograph Record」というフレーズがいかに重要かということが分かる。
ラドフォードはペギーに明日の朝電話すると約束した。しかし電話をすることはなかったし、それきり会うこともなかった。そもそも、一九四二年、彼はだれのためにもそのレコードをかけることはなかった。その盤は傷みがひどかった。もうリダ・ルイーズの声にはとてもきこえなかったのだ。(J.D.サリンジャー「ブルー・メロディ」金原瑞人・訳)
リダ・ルイーズが死んで15年後、ラドフォードとペギーは偶然に再会する。
しかし、ラドフォードはガールフレンドと待ち合わせ中だったし、ペギーは夫と一緒だった。
ペギーはラドフォードとの再会を喜び、リダ・ルイーズの古いレコードを聴くために「明日、電話してくれない?」と、ラドフォードに誘いをかける。
そのレコードは、かつてリダ・ルイーズが、ペギーとラドフォード二人のことを歌った「センチメンタル・ペギー」という曲のレコードだった。
それは、センチメンタルな女の子が、学校の黒板の前に立っている小柄な男の子に恋をするという歌だった(今日、リダ・ルイーズの「センチメンタル・ペギー」のレコードはいくら出しても買えない。B面の曲に問題があって、わずかな枚数しか世に出なかったのだ)。(J.D.サリンジャー「ブルー・メロディ」金原瑞人・訳)
ラドフォードは「明日の朝電話する」と約束しながら、ペギーに電話することはなかった。
傷だらけのレコード盤は、ラドフォードとペギー、二人の青春の象徴だろう。
それは、リダ・ルイーズの歌声とともに、二度と甦ることのない失われた青春の記憶でもある。
黒人差別とジャズ音楽と青春小説。
サリンジャーは、このように、複数のモチーフを一つの作品の中に組み込むことが好きだったらしい。
作品名:ブルー・メロディ
著者:J.D.サリンジャー
訳者:金原瑞人
書名:彼女の思い出/逆さまの森
発行:2022/07/25
出版社:新潮社