萩原葉子「望遠鏡」読了。
本書「望遠鏡」は、1970年(昭和45年)に、三月書房から刊行された随筆集である。
森茉莉や三好達治のこと
「随筆について」という随筆がある。
随筆の注文があると、私はそわそわしてしまう。それはやはり嬉しいからである。しかし、その嬉しい気持を排し、断るという一大決心をしなければならないと、思っている。今日までの私はともかく何でも書けば勉強になっていたので、随筆もありがたかった。おかげで随筆集も出た。だが、随筆では大きなものは書けないという致命的な欠陥がある。(萩原葉子「随筆について」)
萩原葉子の最初の随筆集『うぬぼれ鏡』が大和書房(銀河選書)から刊行されたのは、1966年(昭和41年)のことである。
三好達治の思い出を書いた『天上の花』が芥川賞候補になったのも、同じ年のことで、この頃から葉子は、しっかりとした文学作品に挑みたいと考えていたのかもしれない。
父親コンプレックスを持っていて、すぐに劣等感に陥り親の七光りと、絶望的になる私である。少しは自信が持てるくらいの作品を書きたい。それには、今後は思い切って小説を書くこと以外は、一切見向きをしないようにしたいのである。それが現在の私に架せられた問題だと思うのだ。(萩原葉子「随筆について」)
やがて、葉子が『蕁麻の家』で女流文学賞を受賞するのは、1976年(昭和51年)のことだった。
文壇の話としては、「夜」の中に森茉莉が登場している。
友達の森茉莉さんと会うのは、たいてい夜である。茉莉さんは独り暮しなので、一緒に食事をしないと不服だが、家族持ちの私は家で夕食を済ませてからでないと、都合が悪いのだ。家が近いので、私の夕食の済んだ八時半頃になって喫茶店で落ち合うのが、習慣だ。(萩原葉子「夜」)
森茉莉は、葉子より「二十歳も年上の友だち」だというから驚く。
葉子が『天上の花』に書いた三好達治の話もある。
人間の生涯にも、返り花はあるもので詩人や芸術家に間々見られる。三好達治さんの一生も返り花を咲かせ、激しく燃焼した。私が『天上の花』に書いた慶子という女性との恋愛に、狂おしいまでの情熱の火を、突如として燃やしたのであった。(萩原葉子「回花蕭條」)
「返り花は、狂い花とも言われて時ならぬ季節に、花が咲くことを言う」とあるが、三好達治の「回花蕭條」は、まさしく返り花の寂しさを詠った詩だった。
三好さんの一生は孤独であった。だが、どんなに不幸に終わっても、芸術家にとっては、回花が必要なのである。人間は四十五歳から五十五歳が一番働き盛りだといわれているように、中年を過ぎてからが本当の充実した仕事が出来るのだ。(萩原葉子「回花蕭條」)
「回花のない芸術家は真の仕事など出来る筈はないであろう」と、葉子は、この随筆を結んでいる。
萩原朔太郎の生家跡
葉子がコンプレックスを感じていたという父・萩原朔太郎のことは「朔太郎の生家」で書かれている。
それは、「群馬県、前橋市北曲輪町の朔太郎の生家だった家が、デパートの駐車場になったことは、実に無念なことである」という文章から始まっている。
朔太郎の生家が売られたニュースを聞いた人は、私の持ち家だったのを売ったように思う人がいたが、実際は津久井家の所有なのである。勿論私の財産であるならば、何とか手を尽して保存に力を入れるだろう。残念ながら、津久井幸子(朔太郎の妹)の所有の土地と家で、私には庭石一つ自由にすることもできない立場である。(萩原葉子「朔太郎の生家」)
ここで葉子は、朔太郎が過ごした生家の思い出を、詳細に綴っている。
朔太郎の父親が明治初年に病院を開業するために住んだ家で、門から入ってゆくと待合室、診察室、病室と横に並べた大部分は病院用にできている。家人の住む家は全体の三分の一位の広さである。離れ座敷が父の愛した部屋であるが、日本風の庭園に川が流れて、この家では一番良い眺めである。(萩原葉子「朔太郎の生家」)
敷地跡には、伊藤整や野田宇太郎、西脇順三郎などの尽力により、「朔太郎の生家跡」の標識が立てられることになったそうである。
文化人の功績を重んじるイギリスに比べて、日本では、文学者の生家が保存されることは珍しいらしい。
せめて、このような随筆の中に残されたことを嬉しく思いたい。
書名:望遠鏡
著者:萩原葉子
発行:1970/9/15
出版社:三月書房