サリンジャーの名作『ライ麦畑でつかまえて』は、傷だらけの主人公(ホールデン・コールフィールド)の再生物語だが、ホールデンの再生は必ずしも分かりやすくは描かれていない。
むしろ、療養所の場面で終わるなど、彼の再生は不明瞭でさえある。
そこで今回は、映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』の原作ともなったサリンジャーの評伝『サリンジャー 生涯91年の真実』を参考にしながら、作品タイトルの意味を解き明かしつつ、ホールデン・コールフィールドの再生過程を丁寧に紐解いてみたい。
傷だらけのホールデンが癒されていく様子が、きっと理解できるはずだ。
なお、サリンジャーの伝記映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』については、別記事「『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』戦争PTSDが変えた作家の人生」に詳しい解説があるので、興味のある方はご参照いただきたい。
考察1|タイトル「ライ麦畑でつかまえて」の意味
ホールデン・コールフィールドの再生過程をたどるためには、作品タイトル「ライ麦畑でつかまえて」の位置付けを確認しておく必要がある。
① 車道を歩いていく子どもたち
タイトルのきっかけとなっているのは、歩道と車道の境界線を歩いていく男の子だった。
その子供がすてきだったんだよ。歩道の上じゃなくて、車道を歩いてるんだ。縁石のすぐそばのとこだけどね。(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
彼らの両親は幼い少年に注意を払おうとする様子もなく、少年は一人で車道を歩き続けている。
彼は既に「ライ麦畑」の崖っぷちから落ちつつある子どもで、それは、ある意味においてホールデン・コールフィールド自身の姿でもあったはずだ。
比喩的には、小さな崖から落ちてみせて、おとなをからかっているのだ。(略)この男の子は実在せず、ホールデンの想像力のなせる作り話か、ホールデン自身の幻影ということもありうる。(ケネス・スラウェンスキー「サリンジャー 生涯91年の真実」田中啓史・訳)
ホールデンは、少年の歌っている歌に引き寄せられる。
②「ライ麦畑でつかまえて」という歌
ホールデンは、少年の歌っている歌が「ライ麦畑でつかまえて」だと思いこんでいる。
車はビュンビュン通る。キューッキューッとブレーキのかかる音が響く。親たちは子供に目もくれない。そして子供は「ライ麦畑でつかまえて」って歌いながら、縁石のすぐそばを歩いて行く。(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
大人と子どもの境界線を歩いて行くかのように、少年は車道の縁石寄りを歩いていた。
こうした風景が、この後の「ライ麦畑でつかまえる人」へと繋がっていく。
③ ロバート・バーンズ『ライ麦畑で会うならば』
ホールデンの間違いを指摘したのは、最愛の妹(フィービー)だった。
「それは『ライ麦畑で会うならば』っていうのよ!」とフィービーは言った。「あれは詩なのよ。ロバート・バーンズの」(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
ライ麦畑で「会うこと」と「つかまえること」を、ホールデンは勘違いしていた。
ここに彼の「生きづらさ」の意味がある。
大ざっぱにいうと、ホールデンの旅はすべて、バーンズの詩を誤って引用したために犯したあやまちを、発見し続ける旅なのだ。彼の旅は、「つかまえる」と「会う」のちがいを理解したとき、はじめて終わるのだ。(ケネス・スラウェンスキー「サリンジャー 生涯91年の真実」田中啓史・訳)
フィービーの指摘を受けたとき、ホールデンは自分の中の過ちが気がつく。
つまり、ここからがホールデンの再生の始まりでもあったのだ。
考察2|フィービーとの「喧嘩」の意味
ホールデンの具体的な再生は、妹(フィービー)との喧嘩によって培われていく。
① 反抗する少女フィービー
ホールデンと一緒に家出をすると言い出したフィービーを、ホールデンはいさめる。
しかし、フィービーはおとなしく言うことを聞くような少女ではなかった。
「学校なんか戻らないって言ったでしょ。兄さんはやりたいようにやったらいいわ。でも、あたしは学校へなんか戻らないから。だかもう黙って」(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
逆ギレするフィービーは、あたかも社会への不満を爆発させているホールデンのようだ。
② ぞっとする兄ホールデン
妹の逆ギレを目の当たりにして、ホールデンはすっかりと動揺してしまう。
彼女に黙れと言われたのは、このときがはじめてだった。ぞっとしたな。ほんとにぞっとした。(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
常に反抗する側にいたはずのホールデンが、いつの間にか、妹の犯行を受ける側になっている。
このとき、ホールデンは、新しいホールデン・コールフィールドを獲得しつつあったのだ。
③ 理解し合うホールデンとフィービー
妹フィービーをなだめながら、ホールデンは動物園へと向かう。
既に彼は家出をすることも、旅に出かけることもあきらめていたのだ。
でも、僕は後を追わなかった。彼女のほうで僕の後からついて来ることがわかっていたからね。(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
言葉を交わさずとも、二人は和解していたのだ。
この場面が非常に重要な場面であることを『サリンジャー 生涯91年の真実』は指摘している。
これはたんに、ホールデン・コールフィールドがおとなになる瞬間ではない。それは結びつきの瞬間であり、彼が他人を「つかまえる」のをやめ、「会い」はじめるときなのだ。(ケネス・スラウェンスキー「サリンジャー 生涯91年の真実」田中啓史・訳)
反抗する少年から解放されたホールデンは、そのとき、大人になった。
死んだアリーの亡霊を守るためではなく、今生きているフィービーを守るために。
彼がおとなの世界にはいるのは、周囲の世界に屈服させられたからでも、成熟の美徳を見てしまったからでもない。ホールデン・コールフィールドがおとなになるのは、それを妹が必要としているからなのだ。(ケネス・スラウェンスキー「サリンジャー 生涯91年の真実」田中啓史・訳)
すべてをあきらめたホールデンは、自分の立ち位置を理解し、「ライ麦畑のつかまえ役」であることからも解放された。
そこに、ホールデンの再生を見出すことができる。
考察3|回り続ける「回転木馬」の意味
有名なラストシーンである「回転木馬」の場面では、既に大人へと成長したホールデンの姿が描かれている。
①「金色の輪」の意味
回転木馬の場面で、ホールデンは既に「ライ麦畑のつかまえ役」であることを放棄していた。
僕は木馬から落ちやしないかと心配でなくもなかったけど、何も言わず、何もしないで、黙ってやらせておいた。子供ってものは、かりに金色の輪なら輪を掴もうとしたときには、それをやらせておくより仕方なくて、なんにも言っちゃいけないんだ。落ちるときには落ちるんだけど、なんか言っちゃいけないんだよ。(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
彼は「つかまえる」のではなく「会う」ことに意味を見出す「おとな」だったのだ。
情緒不安定なホールデンは、もうどこにもいない。
回転がとまると、彼女は木馬をおりて、僕のとこへやって来た。「今度は、いっぺん、兄さんも乗って」と彼女は言った。「いや、僕はただ、君を見ててあげるよ。僕は見てるだけでいいんだ」(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
彼はただ、回転木馬に乗る妹の姿を見て喜ぶだけだった。
② 急に降り出した「雨」の意味
急に降り出した雨の中、ホールデンは回転木馬に乗って回り続けるフィービーを見続けている。
雨が急に馬鹿みたいに降り出した。(略)すっかり、ずぶ濡れになったな。特に首すじとズボンがひどかった。(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
アリーのお墓でも雨が降っていた。
彼が世の中を憎み始めたのは、それからだった。
しかし、今、彼は同じ雨の下で、生きているフィービーを見続けている。
すべてが一回りした瞬間だったかもしれない。
雨はすべてを洗い流していった。
「アリーのお墓」の場面については、別記事「なぜホールデンは「インチキ」に苛立つのか?『ライ麦畑でつかまえて』怒りの裏の孤独とアリーの影」に詳しい解説があります。
③ なぜ彼は「幸福な気持」だったのか?
ホールデンの家出物語は幸福な気持ちで幕を閉じた。
しかし、僕は平気だった。フィービーがぐるぐる回りつづけてるのを見ながら、突然、とても幸福な気持になったんだ。本当を言うと、大声で叫びたいくらいだったな。それほど幸福な気持だったんだ。(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
ホールデンが「大声で叫びたいほど幸福な気持ち」になったのは、彼がすべての「怒りや絶望」から解放されたからだ。
それは、つまり「アリーの亡霊」からの解放でもある。
というよりも、むしろそれは「アリーを解放」する儀式だったのかもしれない。
フィービーを見出すと、アリーを解放する。アリーの意義や純粋さが妹のなかにふたたび生まれたことを、彼はいま理解したのだ。死者を解放して、生者を抱擁するのだ。(ケネス・スラウェンスキー「サリンジャー 生涯91年の真実」田中啓史・訳)
ライ麦畑の崖っぷちを越えて、おとなの世界に渡った彼は、それでも妹の美しさを理解することができた。
ただ、フィービーが、ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、回りつづける姿が、無性にきれいに見えただけだ。全く、あれは君にも見せたかったよ。(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
大声で叫びたいくらいに幸福な気持ちは、妹(フィービー)の美しさを認めたことによる、ホールデンの幸福な気持ちである。
おとなになっても彼は「インチキ」になることはなかった。
そこにホールデン・コールフィールドの再生があり、成長がある。
考察4|彼はなぜ「病院」にいるのか?
物語は、病院で暮らしているホールデン・コールフィールドの回想によって綴られている。
無事に「再生」できたはずの彼は、なぜ病院にいるのだろうか?
それは、ホールデンの(心の)傷痕が、想像以上に深く、重いものだったことを示唆している。
弟(アリー)を亡くしたことが、それほどまでに重いことだったのか?
ホールデンにとって、それは間違いなく重いことだったしか言いようがない。
なぜなら、作者(サリンジャー)は、自分自身の喪失体験を、すべて「死んだ弟アリー」に注ぎこんでいたからだ。
サリンジャーの喪失体験とは、つまり、第二次世界大戦で経験した過酷な戦争体験である。
サリンジャーは、自身の戦争体験を弔うために、本作『ライ麦畑でつかまえて』を執筆していた。
ホールデン・コールフィールドの心の傷は、戦争によって負わされたサリンジャー自身の心の傷だったのだ。
まとめ│少年からおとなになるということ
世界中の「インチキ」を憎み続けたホールデンは、妹(フィービー)の浄化によって、「ライ麦畑の崖っぷち」を乗り越えることができた。
ある意味で、彼は、幸福な少年である。
なぜなら、この物語にはおとなになることのできなかった少年たちが、少なくとも2人は登場しているからだ。
生き続けていくことの難しさを、作者サリンジャーは誰よりも理解していたと言える。
だからこそ、彼は(ホールデンは)「生」にこだわり続け、死者(アリー)を畏れ続けたのだ。
ホールデンにとって「おとなになる」ということは、つまり「生き続ける」ということでもあった。
生きていくことの難しさを抱えたままで、彼は生き続けていた。
生きにくい時代を生き続けている現在の僕たちと同じように。
『ライ麦畑でつかまえて』という小説が時代を超えて愛され続けている理由は、そんなところにあるのかもしれない。
なお、本作『ライ麦畑でつかまえて』の詳しい解説は、別記事「『ライ麦畑でつかまえて』徹底考察│ホールデンの怒りと3つのメタファー、結末の意味を解き明かす」にあるので、未読の方は併せてご覧ください。
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