太宰治『晩年』読了。
本作『晩年』は、1936年(昭和11年)6月に砂子屋書房から刊行された短篇小説集である。
この年、著者は27歳だった。
戦後にベストセラー作家となった太宰治の、最初の創作集である。
小説が好きすぎて狂った男たち
小沼丹に「『晩年』の作者」という随筆がある(『井伏さんの将棋』所収)。
太宰治の文学、は「晩年」に始まり「晩年」に終った。(小沼丹「『晩年』の作者」)
太宰治と小沼丹は、いずれも井伏鱒二に師事していたという、兄弟弟子の関係にあった。
小沼丹にとって太宰治は、最後まで<『晩年』の作者>という思いがあったらしい。
師である井伏鱒二も、太宰の『晩年』を高く評価していた。
「晩年」は太宰君の遺書である。当人も慎重を期し、組み方、用紙、装幀などにも気をつかい、プルーストの訳本を砂子屋に持って行き、それを装幀見本にするように註文した。瀟洒な美本である。(井伏鱒二「解説『太宰治集(上)』」)
『晩年』の出版を砂子屋書房と交渉したのは、太宰の盟友(檀一雄)である。
おそらく太宰は自殺を選ぶだろう。だから、何としても、「晩年」を今の中に上梓しておきたいと思った。大きい封筒に入れられた儘、「晩年」の原稿は、早くから私が預かっていたからである。(檀一雄「小説 太宰治」)
檀一雄にとっても、『晩年』は太宰の遺書である、という認識があったのだろう。
27歳の若者が出す初めての著作のタイトルとして「晩年」は、いかにも老成しすぎている。
もっとも、「晩年」というタイトルまで含めて、本作『晩年』に収録された作品は、いずれも手の込んだ作品ばかりである。
多くの作品で、小説家を目指す若者が登場している。
僕はなぜ小説を書くのだろう。困ったことを言いだしたものだ。仕方がない。思わせぶりみたいでいやではあるが、仮に一言こたえて置こう。「復讐」(太宰治「道化の華」)
「道化の華」は、本作『晩年』の中核となる作品である。
本書には、計15篇の短篇小説が収録されているが、「晩年」というタイトルの作品はない。
「道化の華」と「思い出」という自伝的な作品二篇が、この短篇集の核になっている。
生活のためには、必ずしも小説を書かねばいけないときまって居らぬ。牛乳配達にでもなればいいじゃないか。(太宰治「猿面冠者」)
芸術に人生を捧げようとする主人公の姿は、もちろん、作者自身の投影だ。
私はいまこんな小説を書こうと思っているのである。(太宰治「玩具」)
至るところに、小説家を志す若者が出没しては、苦しみ、嘆き、気炎を吐く。
私もまた、そのような、小説らしい小説を書こうとしていた。(太宰治「めくら草紙」)
太宰治という若者を支えていたのは、「小説家になりたい」という執念だったのだろう。
人生を削るようにして、太宰は小説を書き続けた。
どだいこの小説は面白くない。姿勢だけのものである。こんな小説なら、いちまい書くも百枚書くもおなじだ。(太宰治「道化の華」)
もちろん、太宰治の作品は、素直な私小説ではない。
「どんなお仕事でしょう」(略)「小説です」「え?」「いいえ。むかしから私は、文学を勉強していたのですよ。ようやくこのごろ芽が出たのです。実話を書きます」(太宰治「彼は昔の彼ならず」)
「つまり、ないことを事実あったとして報告するのです」と、青扇は言った。
実際の体験を徹底的にデフォルメしながら、物語としての完成度に拘泥する作者の姿勢が、そこにはある。
井伏は太宰さんを本当にかわいがっていました。「もうあんな天才は出ない」と、その死をくやしがってもいました。(井伏節代(井伏鱒二夫人)インタビュー「太宰さんのこと」)
太宰の天才は、あるいは、小説の研究者としての天才ではなかったか。
『晩年』に収録された、どの作品にも、研究の痕跡が感じられる。
ところが、そのあたり私は、ある露西亜の作家の名だかい長編小説を読んで、また考え直してしまった。(太宰治「思い出」)
おそらく、太宰は、多くの外国小説を分析していたに違いない(実践的な研究者の視点に立って)。
「小説というものはつまらないですねえ。どんなによいものを書いたところで、百年もまえにもっと立派な作品がちゃんとどこかにできてあるのだもの」(太宰治「彼は昔の彼ならず」)
古典というものを、相当に読みこんでいなければ、このような台詞は、生まれてこないのではないだろうか。
おれは、ヴァレリイもプルウストも読まぬ。おおかた、おれは文学を知らぬのであろう。知らぬでもよい。おれは別なもっとほんとうのものを見つめている。(太宰治「陰火」)
主人公の関心は、とにかく小説にある。
ボヴァリイ夫人。ふだんはこの本を退屈がって、五六頁も読むと投げ出してしまったものであるが、きょうは本気に読みたかった。(太宰治「道化の華」)
つまり、小説家に焦がれる若者の祈りこそが、『晩年』という創作集の大きなモチーフだったのだ。
ここの古本屋には、「チェホフ書簡集」と「オネーギン」がある筈だ。この男が売ったのだから。(太宰治「猿面冠者」)
太宰治が「オネーギン」を愛読したことは、井伏鱒二が書いている。
そのころ私は「オネーギン」を読みかけていたが、三分の一も読まないで止していた。(略)私は、とうとうプルーストもプーシキンも読まなかったが、太宰君は「オネーギン」を読んですっかり魅了され、再読三読した後で「思い出」の執筆に取りかかった。(井伏鱒二「あの頃の太宰君」)
『晩年』に並ぶ小説には、研究者らしい客観的で冷静な視線がある。
素材の味を生かしつつ、手の込んだ創作料理といった味わいが、どの作品にも滲み出ている。
文学というよりも、研究と実験の結果が、小説という形になって結実したという感じがしないでもない。
それが、太宰治という作家の、テクニシャンな一面だったのだろう。
「書きだしには苦労した」と、「猿面冠者」にある(「題を『鶴』とした」)。
彼は書きだしに凝るほうであった。どのような大作であっても、書きだしの一行で、もはやその作品の全部の運命が決するものだと信じていた。(太宰治「猿面冠者」)
作家としての信念そのものが、小説としての根幹を支えている。
どうせ死ぬのだ。ねむるようなよいロマンスを一篇だけ書いてみたい。(太宰治「葉」)
小説家としての執念。
太宰治の小説には、どこか鬼気迫るものがある。
お小説。百篇の傑作を書いたところで、それが、私に於いて、なんだというのだ。(太宰治「めくら草紙」)
読み方を変えると、小説が好きすぎて(小説家が好きすぎて)狂った男たちの物語が、本作『晩年』であったとも言える。
狂った作者は、小説からの救いを求めていた。
この小説を書きながら僕は、要蔵を救いたかった。(太宰治「道化の華」)
研究者の視点で小説を書きながら、太宰治が救おうとしていたもの。
それは、作者自身だ。
「道化の華」の主人公(大庭要蔵)は、最後の長篇『人間失格』で主人公の名前にもなった。
小沼丹が言った「太宰治の文学、は「晩年」に始まり「晩年」に終った」という言葉の意味が、ここにある。
デフォルメされた自画像
太宰治は、常に自分自身を描き続けた。
『晩年』に収録された作品群は、いずれも、作者自身の自画像と言っていい。
「ここを過ぎて悲しみの市」友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑え。(太宰治「道化の華」)
もちろん、太宰治の描く自画像は、徹底的にデフォルメされた変奏曲としての自画像だ。
やがて『人間失格』として結実する運命を持った短篇「道化の華」は、初期の太宰治を描いた自画像の完成形である。
「あそこだよ。あの岩だよ」要蔵は梨の木の枯枝のあいだからちらちら見える大きなひらたい岩を指さした。岩のくぼみにはところどころ、きのうの雪がのこっていた。「あそこから、はねたのだ」(太宰治「道化の華」)
行きずりの女給(田部シメ子)と心中したときの体験が、そこには綴られている。
「くだらない話だよ。女は生活の苦のために死んだのだ。死ぬる間際まで、僕たちは、お互いにまったくちがったことを考えていたらしい。園は海へ飛び込むまえに、あなたはうちの先生に似ているなあ、なんて言いやがった。内縁の夫があったのだよ。二、三年まえまで小学校の先生をしていたのだって。僕は、どうして、あのひとと死のうとしたのかなあ。やっぱり好きだったのだろうね」(太宰治「道化の華」)
心中に失敗した若者の葛藤が、この小説にはある(なにしろ、女だけが死んだ)。
同じく、自伝的短篇「思い出」は、少年期の自画像だ。
休暇が終りになると私は悲しくなった。故郷をあとにし、その小都会へ来て、呉服商の二階で独りして行李をあけた時には、私はもう少しで泣くところであった。(太宰治「思い出」)
実家の女中(みよ)への初恋が、この物語の柱となっている。
どうしても寝つかれないので、あのあんまをした。みよの事をすっかり頭から抜いてした。みよをよごす気にはなれなかったのである。(太宰治「思い出」)
自慰行為(マスターベーション)を、太宰が「あんま」という隠語を使って話をしていたことは、檀一雄『小説 太宰治』にも登場している。
『晩年』の全作品を読むのが大変だと思う人は、はじめに「道化の華」、次に「思い出」を読むといい。
パッチワーク的な作品「葉」もおすすめ。
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。(略)これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。(太宰治「葉」)
冒頭に「撰ばれてあることの / 恍惚と不安と / 二つわれにあり」というベルレーヌの詩が引用されているのもいい。
パッチワークながら、良い物語が随所にある。
「なんの。哀蚊はわしじゃがな。はかない……」(太宰治「葉」)
「ロマネスク」は、井伏鱒二の高い評価を得た作品である。
「ロマネスク」は、力作という点でも「思い出」に匹敵する。詩情が底光りを発している。これを逸早く見つけ、名作として「早稲田文学」誌上で絶賛したのが尾崎一雄であった。(井伏鱒二「解説『太宰治集(上)』」)
公私ともに、太宰治の師であり続けた井伏鱒二の解説は、ぜひ読んでおくべきだ。
高い構成力と豊かな詩情が、この作品を支えている。
つまり、「ロマネスク」は、太宰治らしさを発揮した作品ということになる。
嘘のない生活。その言葉からしてすでに嘘であった。(太宰治「ロマネスク」)
細部まで彫り込まれた彫刻の傑作というイメージが、初期の短篇にはある。
こうした彫琢の痕跡は、執筆を重ねるごとに見えなくなっていき、やがて、すべてが自然の物語のように思われるようになった。
だからこそ、太宰治は天才と呼ばれたのだろう。
おれは尚も笑いつづけながら、どんな男か、とやさしく尋ねた。おれの知らない名前であった。妻がその男のことを語っているうちに、おれは手段でなく妻を抱擁した。これは、みじめな愛欲である。同時に真実の愛情である。妻は、ついに、六度ほど、と吐きだして声をたてて泣いた。(太宰治「蔭火」)
寝取られた男の葛藤を描くことについても、太宰は、やはり天才だった(「蔭火」は、妻の性体験に欲情する男が主人公)。
多くの読者は、太宰治という作家の弱さに共感する。
太宰治という人間の不完全さに、自分自身の不完全さを投影しているのだ。
初期創作集『晩年』は、いつかの時点で読まなければならない作品集である。
ここでも、また、太宰治らしい太宰治に出会うことができるだろう。
書名:晩年
著者:太宰治
発行:1947/12/10(2005/10/15改版)
出版社:新潮文庫