横山隆一「フクちゃん随筆」読了。
本作「フクちゃん随筆」は、1967年(昭和42年)に刊行された随筆集である。
この年、著者は58歳だった。
スターバックスコーヒー鎌倉御成町店のプールと藤棚
鎌倉・御成駅の近く、奥まった住宅街にスターバックスコーヒー鎌倉御成町店がある。
漫画家・横山隆一の邸宅跡地に建てられたカフェで、庭にあるプールや藤棚などは当時のままだという。
初夏に訪れたとき、プール横にある藤棚の藤の花が満開だった。
『フクちゃん随筆』の「あとがき」に、このプールが登場している。
祝賀会は盛会で、二百人近い人が集まった。庭は定員三倍の満員電車のようであった。人に押されたわけでもないが、大佛(次郎)さんがプールへ落ちて大騒ぎの一幕もあった。ふわりと落ちたので、そばにいた人もわからなかったという。(横山隆一「フクちゃん随筆」)
本来であれば「あとがき」に出てくるようなエピソードではないが、なにしろ、この随筆集は濃密すぎて、ネタが溢れてしまったのかもしれない。
マシンガントークのように、次から次へと楽しい話が登場する。
本書は大きく三部構成になっていて、最初が『毎日新聞(日曜版)』に連載された「ひとりがてん」、次が『週刊朝日』に連載された「漫画友談」、最後が紀行エッセイの「漫画集団世界を回れば」である。
漫画家とはいえ、横山隆一は文士との交流が盛んだったから、文壇のこぼれ話みたいなエピソードが多い。
「蘭丸」は、盟友・清水崑との思い出話である。
戦後、作家の久米正雄さんや大佛次郎さん、吉屋信子さん、永井龍男さんといっしょに岐阜へ旅行したことがある。養老の滝へ行ったとき、崑が売店でひょうたんを買って、宿でそれに酒をつめた。すると底のほうからポタポタ酒が漏りはじめた。(横山隆一「蘭丸」)
このとき、永井龍男が清水崑を慰めて「ひょうたんにもほどがある」と、上手な洒落を言ったそうだ。
「散らかし」の中には、坂口安吾が登場している。
それでも散らかすことにかけて、私がかなわないとかぶとをぬぐ人がいた。亡くなった作家の坂口安吾さんである。あのころ、安吾さんの部屋へはいった私の目には、東京の焼け跡のほうがきれいに見えたくらいだ。(横山隆一「蘭丸」)
久保田万太郎の名前は、あちこちに散見される。
毎年四月の末から五月にかけて、私は久保田万太郎先生に書いていただいた茶がけの軸を掛ける。その句は「包丁の柄をはうはえの生れけり」というのである。(横山隆一「ハエ生まれる」)
次々と四コマ漫画をめくるような楽しさ
久保田万太郎とは、やはり酒の思い出が多くなるようだ。
東銀座のいづもばしに、「はせ川」という小料理屋がある。この店は昔から文芸春秋の人たちにかわいがられたので、文士の集まりも多かった。漫画集団では清水崑が草分けだろう。(略)戦災で一時、西銀座のバラックで店を開いたことがある。ここの主人は久保田万太郎さんや久米正雄さん、菊池寛さんと友だちだったそうだが、私たちはおやじの亡くなった後の客である。(横山隆一「酒と酒飲みたちのお話」)
はせ川では、永井龍男や佐藤垢石と一緒に飲んだ思い出がある。
佐藤垢石の息子が、はせ川の娘を嫁にもらうことになったので、永井龍男に仲人を依頼するという飲み会だったのだが、佐藤垢石の話が何だかあやしい。
話をよく聞いていくと、佐藤垢石の息子はまだ大学生で、結婚については何も承知していないという。
「お前さん、それはお前さん一人の考えだな。このうちと親類になって、ただで酒を飲もうというこんたんだな」という永井龍男の台詞がおかしい。
戦後に生まれた『新夕刊』の話も興味深い。
終戦の秋、私は病気で家で寝ていた。小林秀雄さんと永井龍男さんが、私の枕もとで、新しい新聞を作るから参加しろという。私は参与で入社した。この小さな「新夕刊」という新聞社の顔ぶれは、いま考えるとびっくりするくらい立派であった。小林秀雄、林房雄、永井龍男さんが局長クラスで、秋山安三郎さんが社会部長、吉田健一さんが渉外部長、文化部長が河上徹太郎さんで、亀井勝一郎さん、大岡昇平さんが部長クラスで文化部へはいった。(横山隆一「漫画友談」)
漫画部は横山隆一と清水崑、田川水泡で、矢崎武子が受付をしていた。
社説には河盛好藏も原稿を書いていたというから、「新夕刊は新聞史としては残らないが、文学史としては残るね」という吉田健一の言葉もしかりという感じだっただろう。
どこのページを開いても、おもしろい話が見つかる。
余計な回り道をしないで、おもしろいところだけを惜しみなく披露していくから、話の展開のスピード感が早くて、次々と四コマ漫画をめくるような楽しさがある。
こんな随筆集が読みたかったんだよなあと思った。
書名:フクちゃん随筆
著者:横山隆一
発行:1967/11/4
出版社:講談社