イーヴ・ガーネット「ふくろ小路一番地」読了。
本作「ふくろ小路一番地」は、1937年(昭和12年)に刊行された、イギリスの児童文学小説である。
この年、著者は37歳だった。
素朴で裏表のないラッグルスかあちゃん
もしも、この「ふくろ小路一番地」が、戦後昭和の日本で書かれていたとしたら、その時のタイトルは、長谷川町子ばりに「ラッグルスかあちゃん」になっていたのではないだろうか。
そう思わせられるくらいに、ラッグルスかあちゃんの存在感が際立つファミリー文学である。
もちろん、個々のエピソードは、個性豊かなたくさんの子どもたちが主人公である。
ごみ屋の父親と、洗濯屋の母親と、つまりは、あまり裕福ではない家庭で育つ子どもたちは、それでも逞しい想像力と果敢な行動力を発揮して、日常生活の中に様々な冒険を持ちこんでくる。
「ふくろ小路一番地」の眼目が、労働者階級の家庭を当事者目線から描いた児童文学だということにあることは明らかだが、こうした階級問題を越えて「ふくろ小路一番地」は物語として楽しい。
何をやらかすか分からない腕白な子どもたちと、思いつきの多い父親、そんな家族をしっかりとまとめていくのが、下町のチャキチャキ奥さん的な母親の、ラッグルスかあちゃんなのである。
だから、どの物語も最後にはラッグルスかあちゃんのところへ戻ってくる。
「かあちゃんも、おまえの皮、ひんむいてくれるからね」かあちゃんはどなりました。「さ、わたしのきいたことに返事をしな。おまえのシャツは、どこだよ」(イーヴ・ガーネット『ふくろ小路一番地』)
ここまでガラの悪い母親が登場する児童文学というのも凄いけれど、母親のこうした小言が、子どもたちへの愛情の裏返しであるということは、考え込むまでもなく、ちゃんと理解できるストーリーとなっている。
物語そのものが、ラッグルスかあちゃんのように素朴で裏表なく、素直に楽しめる構成となっているのである。
こうした物語の根底にある哲学は、明日への生きる希望だろう。
それは、昭和戦後を生きた日本人がすべからく共有していたものである。
ラッグルスかあちゃんは、明日への生きる希望を与えてくれる、元気の源みたいな、肝っ玉母さんだったのだ。
ラッグルスかあちゃんの存在なくして「ふくろ小路一番地」は成り立たない。
そう言いたいくらいに、ラッグルスかあちゃんのキャラクターは素晴らしい。
戦前イギリスの労働者階級の家庭の暮らし
「ふくろ小路一番地」では、戦前イギリスの労働者階級の家庭の暮らしが詳細に描かれていて興味深い。
特に、注目したいのは、ラッグルスのゴミ収集の様子である。
家によると、いいもうけをすることがあります──古ぐつ、敷き物のきれはし、ビーズの首かざり、ちょっとハンダづけをすれば使えるなべ、外国切手のはってある古手紙(この外国切手集めは、バードさんが、むすこのためにやっていました)、絵入り雑誌、あきびんがたくさんに──一度などは、中みのあるびん──大きい、まだあけてないビールびんが、まちがってすててあったことさえあります!(イーヴ・ガーネット『ふくろ小路一番地』)
ごみ収集を生業にしているラッグルスの働きぶりが、実に生き生きと描かれていて、そこには職業の貴賤を問うような、難しい問題提起はない。
職業の貴賤という問題そのものが、物語の中には存在しないのだ。
日常生活の中で、どれだけ楽しく生きることができるか。
生きるエネルギーというのは、意外と、そんなところから生まれてくるのではないだろうか。
楽しく読み終えて元気になることができる、ドタバタ家族の物語である。
書名:ふくろ小路一番地
著者:イーヴ・ガーネット
訳者:石井桃子
発行:2009/5/15 新版
出版社:岩波少年文庫