三浦哲郎「下駄の音」読了。
本書は、三浦哲郎によって五冊目の随筆集である。
著者の随筆には、庄野潤三が時々登場しているが、本書にも庄野さんが登場しているので書き留めておきたい。
それは「お年玉の謎」というタイトルの随筆である。
毎年、正月の四日に、武蔵野の小沼丹の家で、極く内輪の新年会がある。
メンバーは、井伏先生、庄野さん、将棋評論家の天狗太郎さん、そして著者というのが古参で、その他に、庄野さんの息子さんたちや編集者、寿司屋の主人、大工の棟梁などが加わる。
午後のまだ日のあるうちは将棋会で、そろそろ日が暮れかけて、みんなもくたびれてポカが続出しはじめたところでお酒になる。
将棋が苦手の庄野さんは、日が暮れる頃に現われて、みんなの熱中ぶりを座敷の隅で静かに観察しているのが習わしだった。
いつだったか、指し終えて手のひらの汗をぬぐっている著者の耳元で、庄野さんが悪戯っぽく笑いながら「頭のてっぺんがちょっと寂しくなったね」と囁いたことがある。
それ以来、庄野さんが登場すると、つい動揺して、嫌な手を指すようになったと、著者は述懐している。
将棋が終わると、井伏老師か庄野さんが真新しい紅白のリボンに優勝者の名前を書き入れて、持ち回りのトロフィーに結び付ける。
参加者は総立ちになって、よいお年玉を手に入れた仲間に拍手を送るのである。
昨年(昭和六十年)の四日は、井伏老師の自選全集の刊行祝いと、米寿の前祝いとを兼ねたような会になった。
小沼さんの用意した硯で著者が墨をすり、井伏さんが著書や色紙に署名を書き入れることになったが、天狗太郎さんに呼ばれて著者がちょっと席を外したときに、小沼さんが「おい、三浦、硯が乾いちゃったよ。君が先生のそばを離れたら困るじゃないか」と言った。
著者は急いで席へ戻って墨をするが、井伏さんが「三浦は困る、か…うん、それにしよう」などと呟いている。
そして、筆に墨を含ませた井伏老師は、色紙に「三浦は、困る」と二行に書いて、署名をした。
「三浦は、困る」の色紙を、井伏さんは二枚書いたが、当然に引き取り手がなく、これもお年玉だと思って著者がもらってきたが、部屋に飾るには少々気の重い文句である。
結局、色紙は本棚の引き出しの中に入ったままとなっているが、「三浦は、困る」の言葉は「私の油断を戒めるための一種の予言だったかもしれないと思うことにしている」と、著者は最後にまとめている。
「ノラを捜して」旭川へ
ところで、本書でいちばんおもしろかったのは「ノラを捜して」という随筆である。
かつて小説の題材ともしていたストリップ劇場の踊り子が消息を絶ってしまったため、安否を確かめるために旭川を訪ねるという話である。
踊り子の名前がノラで、著者は同行の編集者と一緒に、かつてノラが経営していたスナックの跡やアパートの部屋を訪ねて回るが、彼女の消息はつかめない。
あきらめかけていたところで物語が急展開するのだが、これは、ほとんど短篇小説だといってもよい、よくできた構成の話だと思った。
寂しい踊り子が旭川で姿を消したという筋書きが、なんとも言えずに切ないし、彼女が姿を消してしまったという旭川の街並みも切ない。
1985年に書かれた随筆だから、旭川の街並みも、今では随分と変わってしまっているだろうか。
書名:下駄の音
著者:三浦哲郎
発行:1987/5/20
出版社:講談社