文学鑑賞

野坂昭如「火垂るの墓」日本社会から棄てられた戦災孤児の怨念

野坂昭如「火垂るの墓」あらすじと感想と考察

野坂昭如「火垂るの墓」読了。

本作「火垂るの墓」(ほたるのはか)は、1967年(昭和42年)10月『オール読物』に発表された短篇小説である。

この年、著者は37歳だった。

作品集としては、1968年(昭和43年)3月に文藝春秋から刊行された『アメリカひじき・火垂るの墓』に収録されている。

第58回(昭和42年/1967年下半期)直木賞受賞。

1988年(昭和63年)に公開されたアニメ映画『火垂るの墓』(スタジオジブリ)の原作小説である。

戦災孤児となり、浮浪児となる

本作「火垂るの墓」は、空襲で母親を失った二人の戦災孤児が死に至るまでの経過を克明に綴った物語である。

中学三年の少年<清太>は、1945年(昭和20年)6月5日の神戸空襲で母を失う。

四歳の妹<節子>は、清太と一緒に避難していたため、無事だった。

病弱だった母は、あらかじめ防空壕に避難させておいたことが裏目となった。

母は上半身をほうたいでくるみ、両手はバットの如く顔もぐるぐるまきに巻いて眼と鼻、口の部分だけ黒い穴があけられ、鼻の先は天婦羅の衣そっくり、わずかに見覚えのあるもんぺのいたるところ焼け焦げできていて、その下のラクダ色のパッチがのぞく、(野坂昭如「火垂るの墓」)

日本海軍に従属する父は、連合艦隊としてアメリカ軍と戦っているらしいが、連絡は途絶えていた。

戦災孤児となった二人は、遠い親戚を訪ねるが、未亡人の嫌味に耐えかねて、家を飛び出してしまう。

節子は常にはなさぬ人形抱いて、「お家帰りたいわあ、小母さんとこもういやや」およそ不平をこれまでいわなかったのに、泣きべそかいていい、「お家焼けてしもたん、あれへん」しかし、未亡人の家にこれ以上長くはいられないだろう、(野坂昭如「火垂るの墓」)

二人の子どもたちが、戦災孤児となり、次には浮浪者となるまでを描いたのが、前半部分となる。

戦災孤児たちの鎮魂歌

浮浪者となった清太は、畑泥棒などを繰り返して食料を確保するが、一般の家庭でさえ満足に食べることができない時代である。

幼い節子が、まず衰弱していった。

朝になると、蛍の半分は死んで落ち、節子はその死骸を壕の入口に埋めた、「何しとんねん」「蛍のお墓つくってんねん」うつむいたまま、お母ちゃんもお墓に入ってんやろ、こたえかねていると、「うち小母ちゃんにきいてん、お母ちゃんもう死にはって、お墓の中にいてるねんて」(野坂昭如「火垂るの墓」)

8月22日、栄養失調による衰弱で、節子は死んだ。

一人になった清太は、ドロップの缶に節子の骨を入れて生き抜こうとするが、それは時間の問題だった。

9月22日、節子と同じ栄養失調により、浮浪児・清太死亡。

6月5日の空襲で母と生き別れてから四か月と持たず、二人の子どもたちは死んでいったことになる。

一体、この作品は、何を訴えているのだろうか。

神戸を襲ったアメリカ軍か、アメリカ軍に負けた日本軍か。

アメリカ相手に戦争を始めた日本政府か、戦災孤児の救済に立ち遅れた日本政府か。

あるいは、二人の戦災孤児を死へと追いやった日本社会か。

おそらく、そのどれもが正解であり、その上で、清太は戦争の時代に生きなければならなかった、自分たちの運命を呪ったことだろう。

「火垂るの墓」は、呪いのような小説である。

同時に、これは社会告発の小説でもある。

戦災孤児が、どのようにして生まれ、どのようにして死んでいったのか。

ドロップの缶もて余したようにふると、カラカラと鳴り、駅員はモーションつけて駅前の焼跡、すでに夏草しげく生えたあたりの暗がりへほうり投げ、落ちた拍子にそのふたがとれて、白い粉がこぼれ、ちいさい骨のかけらが三つころげ、草に宿っていた螢おどろいて二、三十あわただしく点滅しながらとびかい、やがて静まる。(野坂昭如「火垂るの墓」)

「やがて静まった」のは、幼くして死んだ節子の霊魂だったのだろうか。

せめて、この作品が、節子たちのように悲しく死んでいった多くの戦災孤児たちの鎮魂歌になってくれたらと願わずにいられない。

作品名:火垂るの墓
著者:野坂昭如
書名:アメリカひじき・火垂るの墓
発行:1972/01/30
出版社:新潮文庫

ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。