読書体験

井伏鱒二『太宰治』将棋と酒と文学の師匠が見た素顔の太宰治

井伏鱒二『太宰治』将棋と酒と文学の師匠が見た素顔の太宰治

井伏鱒二『太宰治』読了。

本作『太宰治』は、1989年(平成元年)11月に筑摩書房から刊行された随筆集である。

この年、著者は91歳だった。

中公文庫版では、井伏鱒二夫人へのインタビュー「太宰さんのこと」が増補されている。

「あとがき」は、小沼丹。

太宰治が幸福だった頃

本作『太宰治』は、太宰治に関する井伏鱒二の文章を集めたアンソロジーである。

師であり、友であった井伏鱒二だからこそ触れることのできた「太宰治」の姿が、そこにはある。

私が初めて太宰君に会ったのは、昭和五年の春、太宰君が大学生として東京に出て来た翌月であった。太宰君は私に二度か三度か手紙をよこし、私が返事を出すのに手間どっていると、強硬な文意の手紙をよこした。会ってくれなければ自殺するという意味のものであった。(井伏鱒二「あとがき『富岳百景・走れメロス』」)

文学を中心に、酒と将棋を交えて、二人の交友関係は急速に深まっていったらしい。

東京大学に入学した太宰は、授業にも行かずに小説ばかり書いていたという。

そう云う当人の私は、とうとうプルーストもプーシキンも読まなかったが、太宰君は「オネーギン」を読んですっかり魅了され、再読三読した後で「思い出」の執筆に取りかかった。(井伏鱒二「あの頃の太宰君」)

「思い出」は、1933年(昭和8年)の短篇小説である(『晩年』所収)。

太宰君は、私にも左翼になるよう勧誘に来たことがある。私は、いやだと云った。では一緒に散歩しないかと太宰君に誘われて散歩に出た。新宿の中村屋の二階でお茶をのんだ。ここで、また太宰君は、私に左翼になれと云った。(井伏鱒二「解説『太宰治集・上』」)

昭和初期、文壇は左翼(プロレタリア文学)がトレンドで、多くの作家が左翼的傾向の作品を書いた。

井伏鱒二は、左翼化しなかった数少ない作家の一人である。

「外はみぞれ、何を笑うやレニン像」という俳句は、共産党問題で苦しんでいた神田岩本町のアパートにいた当時、色紙に書いてかけていたものである。(井伏鱒二「解説『太宰治集・上』」)

第一創作集『晩年』(1936)を出版した頃の太宰治の様子が、ここでは綴られていて、「外はみぞれ、何を笑うやレニン像」は、短篇小説「葉」(1934)に登場するものだ。

大学五年生のとき、パピナール中毒になっていた太宰は、学費滞納により大学を除籍された。

太宰君の話では、卒業試験の口頭試験のとき辰野先生は太宰君の語学力を斟酌されたらしい。立会の三人の教授先生を指差して、「この三人の先生の名前を云ってごらん。君に云えたら、卒業できないこともない」と云った。太宰君は答えることができなかった。(井伏鱒二「太宰治のこと」)

当時、太宰治には、青森時代から交際している女性(小山初代)がいて、東京で一緒に暮らし始める(入籍はしていないので「内縁の妻」)。

この琴は、太宰治君の先の細君が(初代さんという名前だが)太宰君から離別された直後、いろんな家財道具と共に私のうちに預けておいたものである。(井伏鱒二「琴の記」)

井伏夫妻は、新婚夫婦の面倒を、なにくれとなく見てやったらしい。

太宰と初代が離別する直接的な原因となったのは、太宰の入院中に初代が不倫したことだったが、この入院にも、井伏鱒二が深く関わっている。

私は太宰に「僕の一生のお願いだから、どうか入院してくれ。命がなくなると、小説が書けなくなるぞ。怖ろしいことだぞ」と強く云った。すると太宰君は、不意に座を立って隣りの部屋にかくれた。襖の向う側から、しぼり出すような声で啼泣するのがきこえて来た。(井伏鱒二「太宰治の死」)

太宰治が東京武蔵野病院へ入院したのは、1936年(昭和11年)10月のことだった。

11月に退院して、その年末(12月28日)、太宰治が不意に井伏鱒二の自宅を訪れている。

いっしょに将棋をさしているところへ、園君、熱海の料理屋の主人を連れ、太宰の行方を求めて来る。園君、いきなり太宰を怒鳴りつける。太宰は園を熱海の宿に残し置き、すでに数日前に帰京していたとのことである。(井伏鱒二「十年前後──太宰治に関する雑用事」)

「園君」のあるのは「檀一雄」のことで、熱海の料理屋で散財した太宰は、料金を支払うことができず、檀をひとり置き去りにして、東京まで金策に戻っていたらしい。

例の「待つ身が辛いかね? 待たせる身が辛いかね?」の名言は登場していないが、井伏さんは、正月用の着物を質入れして料金の一部に充て、足りない分は、佐藤春夫にお願いして立て替えてもらった。

持ち合わせのなかった佐藤春夫は、三好達治から借りたお金で用立てたらしい(貧しい三好達治も、大阪の母親から結婚のお祝いのお金が送られてきたばかりだった)。

小山初代が置いていった琴は、様々な作品に登場している。

「さっきの雪のつもるところは、実際に雪がつもっているようだったね。朝、雪の降っているとき目をさますと、雪の匂いがするね。あの感じだ」私がそう云うと、「三好さんは、あの作曲が出来ているのを知ってらっしゃるのでしょうか」と家内が云った。(井伏鱒二「琴の記」)

初代の置き土産となった琴は、箏曲家(古川太郎)のところへもらわれていった。

太宰の生活を立て直すため、新しい嫁を紹介したのも井伏鱒二だった。

小料理屋「ピノチオ」の長女との結婚を斡旋したりと、紆余曲折はあったらしい(「当人に話したら、結婚したいと云った。僕は良縁だと思うね」)。

「バスの都合で、僕は急ぐからね」と私は太宰に云った。「決して置いてけぼりにするわけじゃないが、バスがなくなるからね。でも、君はゆっくり話して行くんだよ。いいかね、気を落ちつけることだよ」「はァ」と微かに太宰は答えた。(井伏鱒二「亡友──鎌滝のころ」)

1938年(昭和13年)9月、石原美知子とお見合いの様子は、太宰治「富嶽百景」に詳しい。

11月に二人は結婚して、太宰治の新しい人生が始まった。

結婚は、家庭は、努力であると思います。厳粛な、努力であると信じます。浮いた気持はございません。貧しくとも、一生大事に努めます。ふたたび私が、破婚を繰りかえしたときには、私を完全の狂人として、棄てて下さい。(太宰治からの手紙より)

井伏鱒二と亀井勝一郎が、静岡県の河津川へ釣りを出かけたときに付いていったのが、新婚旅行の代わりだった。

このとき、南伊豆一帯に大洪水があって、一行の泊まっていた宿も水に飲まれる。

太宰君は奥さんに向かって「人間は死ぬときが大事だ」と云った。(略)そして奥さんに向かい「後で人に見られても、見苦しくないようにしなさい。着物をきかえなさい」と云いつけたが、「しかし後で人に見られて、たまるものか」と呟いた。(井伏鱒二「太宰治の死」)

井伏鱒二と太宰治の二人にとって、この時代が、最も良い時代だったのではないだろうか。

「あとがき」の中で、小沼丹は、初めて太宰治に会ったときのことを回想しているが、これも、1938年(昭和15年)頃のことであったらしい。

井伏さんが笑って、太宰君には不思議な嗅覚があって、うちで酒を飲んでいるとちゃんと嗅ぎつけて姿を現す、と云ったら太宰さんは、「──いやあ……」と笑って髪を掻き上げたが、何だか嬉しそうな笑顔だったと思う。(小沼丹「あとがき」)

この年、井伏鱒二40歳、太宰治29歳、小沼丹20歳だった(ほぼ10歳ずつ違う)。

太宰治は無理心中だった

1941年(昭和16年)11月から1942年(昭和17年)12月まで、日本陸軍に徴用された井伏鱒二は、シンガポールへ派遣されている(『徴用中のこと』に詳しい)。

当時、太宰君は徴用を逃れたことを、何か後ろめたいことのように感じていたように思われる。何か身を小さくしている風で、私たちが東京駅を発つときにも姿を見せなかった。(井伏鱒二「戦争初期の頃」)

私たちが東京駅を発つときにも姿を見せなかった」とあるのは、井伏さんの記憶違いだと、小沼丹は「あとがき」で指摘している(井伏さんを見送りに行った小沼丹は、東京駅のホームで太宰治の姿を見ている)。

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二人の交友は、戦争末期、甲府へ疎開しているときも続いていた。

私が甲府市外へ疎開していた当時、太宰君も甲府に疎開していたので割合に顔を合わす機会が多かった。それも逢うのは殆どおきまりのように、酒を飲む場所であった。(井伏鱒二「甲府にいた頃」)

甲府の街が焼ける数日前、太宰治が中島健蔵に因縁をつけた。

不機嫌に席を立った太宰は、膝を血だらけにして戻ってきたという。

あとで旅館のおかみの話では、あのとき城の濠の橋のところまで太宰君を見送ると、太宰君が「僕は淋しい」と云い残して橋を渡って行ったという。(井伏鱒二「甲府にいた頃」)

酔って飛び出した太宰は、城址の階段から転げ落ちたものらしいが、似たようなエピソードが、他にもあった。

井伏さんが初めて御坂峠へ出かけるという前日の夜、荻窪の八丁通りにあるオカメという料理屋で、二人が偶然一緒になったときのことだ。

看板だから帰ってくれとオカメの主人が云ってから私たちは外に出た。鎌滝に帰る横丁に折れる前に、太宰は突然「ひイ……」というような泣き声を出した。(井伏鱒二「亡友……鎌滝のころ」)

あるいは、誰よりも孤独を恐れていたのが、太宰治という作家だったのかもしれない。

空襲で甲府の家を焼け出された太宰は、故郷(津軽)へと疎開する。

「津軽にはウイスキーがあるから飲みに来てくれ」と書かれた太宰からの手紙が、井伏さんのもとへ届く(「上等のやつを押入に何本も用意して待っている」)。

私はこの手紙を読んで、実に無慈悲なことを云う太宰だと思った。上等のウイスキーは飲みたいが、わざわざ広島県から青森県に行けるものではない。これが終戦直後ころのことだから、汽車に乗るのも大変である。(井伏鱒二「報告的雑記」)

戦後、井伏鱒二が太宰治と会ったのは、3回だけである。

井伏鱒二と太宰治との関係は、戦前に比べ、著しく疎遠になっていたらしい。

太宰が私に対して旧知の煩わしさを覚えていたことを私も知っていた。敗戦後の太宰は、外見だけのことであるが、まるきり人違いがしているようであった。(井伏鱒二「おんなごころ」)

それでも、太宰は、疎開のために文筆活動をできないでいた井伏さんの身を案じていたらしい。

用談というのは、筑摩書房から出す私の選集編纂の打ちあわせであった。私はその席で初めて気がついたが、私が東京に転入する前に太宰君は私のために古田晁に交渉して、私の選集九巻を出すことにしていたのであった。(井伏鱒二「太宰君の仕事部屋」)

この『井伏鱒二選集』の「後記」は、太宰治自身が執筆を担当している。

井伏鱒二が最後に太宰治の姿を見たのは、青柳瑞穂夫人の葬儀のときだった。

焼香して帰る太宰さんとすれ違った。井伏もすぐ焼香を終えて、あとを追ったのでしたが、もう姿が見えなかったそうです。「阿佐ヶ谷駅で山崎富栄と待ち合わせでもしていたんだろうな」と、井伏は残念がっていました。(井伏節代(井伏鱒二夫人)「太宰さんのこと(インタビュー)」)

1948年(昭和23年)6月13日、太宰治は、山崎富栄と二人、玉川上水へ入水した。

敗戦後、彼は東京に転入したが、結果から云うと無慙な最期をとげるため東京に出て来たようなものであった。彼は女といっしょに上水に身を投げた。(井伏鱒二「点滴」)

もっとも、井伏鱒二は、太宰の死は「無理心中だった」と、最後まで信じていたらしい。

そのとき、ある一人の刑事が、こう云ったそうである。太宰という作家が身投げをして、遺骸が見つかったとき、自分は検視の刑事として現場に立ちあった。その検視の結果によると、太宰氏の咽喉くびに紐か縄で絞めた跡が痣になって残っていた。無理心中であると認められた。(井伏鱒二「おんなごころ」)

筑摩書房の若い編集者(石井君)が、太宰の遺体を見ている。

「君、遺骸を見ましたか」と私は、石井君に傘をさしかけて囁いた。「見ました」と石井君は、ひくい沈鬱な声で云った。「僕が、太宰先生の遺骸を、川から担ぎ上げたのです。太宰先生は両手をひろげていました」(井伏鱒二「おんなごころ」)

愛弟子・太宰治の自殺は、井伏鱒二に大きな衝撃を与えた。

太宰さんの葬儀のとき、自分の子どもが死んでも泣かなかった井伏が、声を上げて泣いたことを河盛好蔵さんがお書きになっています。初めて泣いたのを見たと。また阿佐ヶ谷の骨董屋で、みんなが太宰さんの話をしたら、井伏が泣き出し、骨董屋の主人もみんなも驚いたといいます。私にとって井伏を思うことは、太宰さんを思うことでもあります。(井伏節代(井伏鱒二夫人)「太宰さんのこと(インタビュー)」)

井伏鱒二は、太宰が石井桃子に憧れていたと信じていた(「あのころの太宰は、あなたに相当あこがれていましたね。実際、そうでした」)。

桃子さんはびっくりした風で、見る見る顔を赤らめて、「あら初耳だわ」と独ごとのように云った。「おや、御存じなかったんですか。これは失礼」「いいえ、ちっとも。──でも、あたしだったら、太宰さんを死なせなかったでしょうよ」(井伏鱒二「おんなごころ」)

太宰の文学的天才を分かっている人間であれば、太宰治という作家の死を、到底容認できるものではない──石井桃子は、そう言いたかったのだろうか。

太宰治の文学碑は、1953年(昭和28年)、御坂峠に建てられた。

井伏は太宰さんを本当にかわいがっていました。「もうあんな天才は出ない」と、その死をくやしがってもいました。「ぼく一人でも御坂峠に太宰君の文学碑をたてたい」と、お酒の席でいったそうです。(井伏節代(井伏鱒二夫人)「太宰さんのこと(インタビュー)」)

碑の建立までの経過については、小沼丹の作品に詳しい(短篇小説「連翹」/『埴輪の馬』所収)。

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敷地と石の下見に付いていったのが、小沼丹、吉岡達夫、小山清だった。

太宰君は昭和十三年の秋から十一月まで、八十日あまりその茶店に泊って静養した。ところが除幕式で開会の辞を述べた私は、大勢の参列者の前で「太宰君は大正十六年の秋から冬まで、ここの茶店に泊まっておりました……」と云った。(井伏鱒二「御坂峠の碑」)

井伏鱒二の言い間違いについても、除幕式に出席していた小沼丹が随筆「御坂峠」(『清水町先生』所収)に書き留めている(「──井伏さん、大正と云わなかったかね?」

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青森県の文学碑は、1956年(昭和31年)、津軽・蟹田町の観瀾山に建てられた。

ちょうど色も形質も、山梨県御坂峠の太宰君の碑に似通っている。碑文は「正義と微笑」のなかの一句を採り、佐藤春夫氏に書いていただくことになった。(井伏鱒二「報告的雑記」)

観瀾山の文学碑については、別に、除幕式の文章もある。

除幕式がすむと、どこからともなくネブタ祭の踊子が三四十人ばかり現われて、円陣をつくりながら太鼓の囃子でにぎやかに踊りだした。踊子はみんな若い女である。森の妖女みたいじゃないかと見ていると、不意に夕立が来て踊子は掻消すように逃げ去った。(井伏鱒二「蟹田の碑」)

本作『太宰治』は、太宰ファンが読んでも、井伏鱒二のファンが読んでも、おもしろい読み物となっている。

井伏鱒二だからこそ知ることのできた太宰治の素顔も、きっと、あったことだろう。

作品集(『太宰治(上)』『富嶽百景・走れメロス』)の解説には、個別の作品についてのコメントも充実している。

井伏鱒二という一人の先輩作家が見た太宰治のスケッチとして、一読の価値あり。

巻末に掲載された井伏鱒二夫人のインタビューも貴重だ。

書名:太宰治
著者:井伏鱒二
発行:2018/07/25
出版社:中公文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。