大型連休を利用して、井伏鱒二の暮らした町を訪ねてみた。
『荻窪風土記』にも詳しい杉並区清水町である。
井伏鱒二を「清水町先生」と呼んだのは、愛弟子の小沼丹だった。
井伏鱒二の自宅は、東京都杉並区清水一丁目にある
井伏鱒二の自宅は、東京都杉並区清水一丁目にある。
昔の住所表記は「東京府豊多摩郡井荻村字下井草1810」だった。
中央線(総武線でもいいが)を荻窪駅で下車して、北口から出ると、目の前を青梅街道が走っている。
井伏さんの作品ではお馴染みの、ここが荻窪である(井伏さんの作品の時代とは、風景が大きく変わってしまっているだろうが)。
青梅街道を渡って、教会通り商店街を進むと、やがて、東京衛生アドベンチスト病院が見えてくる。
1993年(平成5年)7月10日)に井伏さんが亡くなったとき、ここは、まだ「東京衛生病院」という名称だった(2019年に改称)。
病院の横には、井伏さんの葬儀が執り行われたセブンスデーアドベンチスト天沼教会がある。
キリスト教徒でもない井伏さんの葬儀が、教会で行われることに戸惑った知人は多かったらしいが、当時、井伏さんが亡くなった東京衛生病院には、井伏夫人も入院中だった。
葬儀は遺族の意志で、身内だけでごく内輪にしたいという意向であったが、周囲の強い要望で、止むなく密葬だけは衛生病院の隣りの荻窪天沼教会で行われることになった。キリスト教徒ではない井伏さんの葬儀が、なぜ教会で行われるのかという疑問をいだく人もいたが、これは井伏さんより先にこの衛生病院に入院し、手術の予後を静養していた老齢の夫人の心情を慮ってのことであった。(川島勝「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」)
棺を乗せた霊柩車が教会を出るとき、井伏夫人は、病院四階の窓から見送っていたという(川島勝『井伏鱒二─サヨナラダケガ人生』)。
井伏さんが亡くなった夜の清水町のことは、阪田寛夫が書き残している。
荻窪でタクシーを拾うつもりだったが、考え直して衛生病院の方へ曲った。病院も静まりかえっていた。(阪田寛夫「七月十日夜のこと」)
その夜、清水町の自宅前には、十数人の若い人たちが、黙って立っていたという(報道関係者だったらしい)。
天沼教会での葬儀については、河盛好蔵の文章が素晴らしい。
式が終りに近づいて聖歌隊が四〇四番の送別の讃美歌を歌い出したとき、あの聞き慣れた「山路こえて、ひとりゆけど」の文句のところで、井伏さんが近頃とみに衰えた重い足を引きずり乍ら冥途の山路をとぼとぼとひとり歩いてゆく姿が彷彿として、あやうく号泣しそうになった。(河盛好藏「山路こえて ひとりゆけど」)
同時代を生きた作家仲間の哀悼が、これ以上伝わってくる文章はない。
「井伏さんが近頃とみに衰えた重い足を引きずり乍ら冥途の山路をとぼとぼとひとり歩いてゆく姿が彷彿として、あやうく号泣しそうになった」という部分を読むと、今でも胸をハッと打たれるような気がする。
教会の前に佇んだときも、最初に思い浮かんだのは、河盛さんの「山路こえて ひとりゆけど」だった。
「井伏」の表札は見つからなかった
日大二高通りを越えて、一方通行の狭い道を進んでいくと、やがて、写真で見覚えのある四つ角に出た。
門の向こう側にあるのが、どうやら井伏鱒二の自邸らしいが、通りからではよく分からない(もちろん、中に入るわけにもいかない)。
1988年(昭和63年)8月の『太陽』に掲載されている写真と比べると、門が違っている。
NHK特集「井伏鱒二の世界~荻窪風土記から~」で観たときの門は木製で、もっと大きなものだった。
ただ、生け垣の雰囲気は、テレビや写真で見たものと、あまり変わっていないような気がする。
確信は持てないものの、住所で言うと間違ってはいないようなので、まあ、だいたい、この辺りが、井伏さんの暮らした町なのだろうと考えて満足することにした。
荻窪に来て六〇年以上になるでしょうな。中央線って、ものが安いっていうのでね。中央線方面に行ってれば、どてら着てても近所の人が悪口言わないと思ったの。よその土地行くとあらたまんなきゃいけないんだ。(井伏鱒二「わが住まい方の記」)
弟子の太宰治や小沼丹が将棋をするために何度も訪れ、石神井公園に住んでいた頃の庄野潤三が、自転車に長女を乗せてやってきたという清水町である。
想像以上に、清水町は立派な(「豪勢な」という意味に近い)住宅街だった。
井伏さんが暮らし始めた(麦畑が広がっていたような)昭和初期とは、もちろん時代が違う。
もう散歩には行かないですよ。自転車なんかにぶつかるから。自動車より自転車の方があぶないですから。そりゃ本当に命がけですよ。恐いから出ないですよ。遠慮してるんですよ。(井伏鱒二「わが住まい方の記」)
その『太陽』の取材から36年。
どれだけ町が変わっていっても、僕たちの清水町は、井伏文学に残り続けている。