旭川市「石川啄木像・歌碑」訪問。
「石川啄木像・歌碑」は、2012年(平成24年)4月13日、「旭川に石川啄木の歌碑を建てる会」によって設置された歌碑・像である。
住所は、旭川市宮下通8丁目3番1号(JR旭川駅東コンコース)。
啄木が泊まった旭川「宮越屋旅館」
石川啄木が、旭川へ宿泊したのは、1908年(明治41年)1月20日の夜のこと。
函館の宮崎大四郎へ宛てた葉書には、次のように書かれている。
旭川宮越屋より。君が三ヵ月日に焼けた旭川!明朝六時半釧路に向ふ。一月二十日夜。石川啄木。宮崎大四郎様。
小樽の新聞社(小樽日報)を人間関係の理由で退職し、釧路の新聞社(釧路新聞)へと転職することになった啄木は、単身、釧路へと向かった。
1908年(明治41年)の『小樽日報』『釧路新聞』の二紙へ、二日間に渡って発表された「雪中行」は、小樽から釧路へと向かう啄木の、真冬の旅行記である。
旭川に下車して、停車場前の宮越屋旅店に投じた。帳場の上の時計は、午後三時十五分を示していた。日の暮れぬ間にと、町見物に出かける。流石は寒さに名高き旭川だけあって、雪も深い。馬鉄の線路は、道路面から二尺も低くなっている。支庁前にさる家を訪ねて留守に逢い、北海旭新聞社に立寄った。(石川啄木「雪中行」)
石川啄木は、1907年(明治40年)5月から1908年(明治41年)4月24日まで北海道に滞在しているが、主な滞在地は、函館・札幌・小樽・釧路の四か所で、その他には、岩見沢と旭川へ(一泊ずつ)宿泊したにすぎない(札幌滞在も二週間だったが)。
一月二十日の朝、上川鉄道(函館本線)の汽車に乗った啄木は、砂川・滝川と北上して、旭川駅に到着する。
旭川へ宿泊した理由は、翌朝六時三十分の旭川発・釧路行きの汽車へ乗るためである。
後年、林扶美子が乗った滝川発・釧路行きの根室本線は、啄木の時代、まだ開通していなかったのだ。
旭川の一泊で、啄木は『一握の砂』に収録されることとなる四つの歌を書き、「雪中行」という旅行記にも、その経過を詳しく記した(第二信)。
啄木の宿泊した「宮越屋旅館」は、駅前広場を越えてすぐの、師団通り(現在の平和通り)入り口角にあった一流旅館で、旭川西武があった頃は、ここに「石川啄木宿泊の地」を示す案内板が設置されていた。
昔、案内板があったあたりを探してみたけれど、石川啄木の痕跡を示すものはなく(なにしろ工事中だ)、旭川駅の観光案内所で尋ねてみたけれど、知っている人はいなかったらしい(当たり前か)。
当時の写真には、通りを隔てて三浦屋旅館と向かい合う、二階建ての宮越屋旅館の風景が残されている。
宮越屋旅館の塀の中には、有名な柳の木があって、芥川龍之介にも「(旭川)雪どけの中にしだたる柳かな」という俳句がある。
北海道の風景は不思議にも感傷的に美しかった。食いものはどこへたどり着いてもホッキ貝ばかり出されるのに往生した。里見君は旭川でオムレツを食い、「オムレツと云うものはうまいもんだなあ」としみじみ感心していただけでも大抵想像できるだろう。雪どけの中にしだるる柳かな(芥川龍之介「講演軍記」)
名前こそ明示されていないものの、宮越屋旅館の柳を詠んだ可能性は高い(芥川龍之介は、この翌月に自殺)。
ちなみに、啄木では、未完の小説「青地君」にも、「二十六日の午後に札幌を発って、その晩は旭川泊、旅館は宮越屋だが寝たのは御存知第一楼さ」と、宮越屋旅館の名前が出ている。
「支庁前にさる家を訪ねて留守に逢い」とあるところ、誰を訪ねたものなのか、研究者にも分からないらしいが、「北海旭新聞社に立寄った」とあるのは、『小樽日報』で同僚だった野口雨情を訪ねるためだったという伝説がある(ただし、根拠不明)。
『北海旭新聞』は、1901年(明治34年)創刊の地元紙で、明治41年当時の発行部数は、2,000部を越えていたという。
旭川は札幌の小さいのだと能く人は云う。成程街の様子が甚だよく札幌に似ていて、曲った道は一本もなく、数知れぬ電柱が一直線に立ち並んで、後先の見えぬ様など、見るからに気持がよい。さる四辻で、一人の巡査があたかも立坊の如く立っていた。(石川啄木「雪中行」)
たった一泊しただけの街に、啄木の歌碑が建ったというのは、『一握の砂』と『雪中行(第二信)』の中で、旭川の印象がことさらに強く残されているからだろう。
湯に這入った。薄暗くて立ちこめた湯気の濛々たる中で、「旭川は数年にしてきっと札幌を凌駕する様になるよ」と気焔を吐いている男がある。「戸数は幾何あるですか」と訊くと、「左様六千余に上ってるでしょう」と其人が答えた。(石川啄木「雪中行」)
発展しつつある街として、旭川は、啄木の歌にも残されることになった。
旭川駅の中にある石川啄木像・歌碑
『一握の砂』収録作品のうち、宮越屋旅館で詠んだものは三首と言われている。
名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の
宿屋安けし
我が家のごと
(石川啄木「一握の砂」)
「名のみ知りて縁もゆかりもなき土地」は、もちろん「旭川」で、「我が家のごと」「宿屋安けし」とあるのが、駅前にあった宮越屋旅館である。
伴なりしかの代議士の
口あける青き寝顔を
かなしと思ひき
(石川啄木「一握の砂」)
「伴なりしかの代議士」とは、『小樽日報』や『釧路新聞』の社長であり、この夜、啄木とともに宮越屋旅館に宿泊した白石義郎のこと。
日記には「催眠術の話が出たためか、先生はすでに眠ってしまった。明朝は六時半に釧路行きに乗る筈だから、自分もそろそろ枕につかねばならぬ。(九時半宮越屋楼上にて)」とある。
今夜こそ思ふ存分泣いてみむと
泊りし宿屋の
茶のぬるさかな
(石川啄木「一握の砂」)
「泊りし宿屋」は、もちろん、宮越屋旅館のことだが、宿屋のお茶がぬるかったとき、啄木は、改めて、小樽を追われ、最果ての釧路まで行かなければならない我が身に同情したのだろう。
一月の旭川だから(厳寒地として有名)、北海道としても、これ以上ないほど寒いはずで、宿屋のお茶がぬるいくらい不思議でもないが、放浪の身に、ぬるい茶は染みたのかもしれない。
さらに、翌朝、旭川駅を発つとき、啄木はもう一首の歌を詠んだ。
水蒸気
列車の窓に花のごと凍てしを染むる
あかつきの色
(石川啄木「一握の砂」)
JR旭川駅東コンコースの観光物産情報センター内には、石川啄木の像と、旭川ゆかりの四首を刻んだ銅版が設置されている。
いかにも、観光客に向けた施設という感じで、写真を撮るのも恥ずかしいが、場所が一等地なので、多くの旅行者の目に触れることは間違いない。
一人旅らしい中年男性が、ベンチに腰掛けて、啄木像と記念写真を撮影しているところなどを眺めていると、庶民目線の作品を多く残した石川啄木が、今もなお、多くの人々に愛されているのだと感じた。
ちょうど昼食時だったので、旭川駅近くにある「蕎麦雪屋」で、せいろ蕎麦を食べて帰る。
旭川には、老舗の飲食店も多いが、「蕎麦雪屋」はオシャレで新しい店だという。
蕎麦粉で作ったらしい蕎麦煎餅が添えられていた。