イタロ・カルヴィーノ「マルコヴァルドさんの四季」読了。
主人公の「マルコヴァルドさん」は、イタリアの都会で暮らす労働者である。
「SBVA社(ズバーヴ)」という会社の倉庫課で荷物運搬などの力仕事に従事していて、路面電車で家に帰ると、妻ドミティッラや6人の子どもたちと一緒に、小さなアパートの一室で慎ましく暮らしている。
マルコヴァルドさんのささやかな楽しみは自然と触れ合うことで、木の枝で黄色くなった葉っぱや、屋根瓦にひっかかっている鳥の羽根、馬の背にまとわりつくアブ、テーブルにあいた木くい虫の穴、歩道にはりついているイチジクの皮など、道行く人々の誰も気に留めないようなものに目を奪われて、季節の移り変わりに思いを馳せている。
「マルコヴァルドさんの四季」は、そんなマルコヴァルドさんが斬新な思い付きで自然と触れ合う様子を描いた物語だが、マルコヴァルドさんの素敵なアイディアは、いつも必ず失敗してしてしまう。
物語は、春の「都会のキノコ」から始まって、夏の「別荘は公園のベンチ」、秋の「町のハト」、冬の「雪に消えた町」へと季節を一回りして、再び春の「ハチ療法」へと続いてゆく。
本作では、こうした四季の移り変わりを舞台にしたマルコヴァルドさんのお話が、それぞれの季節ごとに5話ずつ計20話、つまり5シーズンの物語によって構成されている。
ひとつひとつの物語に直接的な繋がりはないが、いずれの話も、都会の中で自然体験を演じることの難しさと、文明社会の中で生きる貧しい人々の姿が、穏やかな笑いと悲しみの視点を持って描かれている。
例えば、最初の夏の物語である「別荘は公園のベンチ」では、広場の公園の片隅にある大きなマロニエの樹の下に置かれたベンチがお気に入りのマルコヴァルドさんが、実際に夏の一夜を公園のベンチで過ごすというお話だが、都会の公園の夜はマルコヴァルドさんが想像していたほど快適ではなく、カップルの喧嘩や、交差点の信号機の灯り、夜を徹して行われる道路工事の騒音、ごみ収集車の強烈な臭いなど、様々な文明社会の断片が、マルコヴァルドさんの安眠を妨げる。
また、最後の夏の物語である「都会に残ったマルコヴァルドさん」では、ヴァカンスにも出かけずに、真夏の都会に一人残ったマルコヴァルドさんが、たった一人きりの都会の街を謳歌するというお話で、人間の姿が消えた都会でマルコヴァルドさんは多くの自然を発見して感動する。
しかし、都会に唯一人残っているマルコヴァルドさんを発見したテレビカメラが、マルコヴァルドさんにインタビューを行い、さらにマルコヴァルドさんがテレビクルーに付いて行くと、都会では映画の撮影が始まっていて、街はあっという間にいつもの喧騒を取り戻してしまうという話である。
自然体験を夢見るマルコヴァルドさんの思いは、最後に必ず都会という文明社会の登場によって裏切られてしまうというところが、この物語の大きなテーマとなっているが、著者(カルヴィーノ)の社会批判は決して露骨ではなくて、軽快なユーモアと穏やかな皮肉を持って、都会の自然児たるマルコヴァルドさんの生きる姿を面白おかしく描き出している。
たまには思い出してくださいね。わたしのステッキが、あなたがたのあとをたどっていることを…
お薦めは、2回目の春の物語である「おいしい空気」。
病気になった子どもたちを連れて、丘の上を訪れたマルコヴァルドさんは、おいしい空気を吸いながら、いつまでもここで暮らしていたいと考える。
やがて日が暮れて、もう帰ろうと思った頃に、パジャマ姿の一群が現れて、都会の暮らしの様子などを尋ね始める。
実は、その丘の上は療養所の敷地内にあって、パジャマ姿の人々は入院患者だったのだが、丘の上の療養所で元気になった人々も、街の工場に戻るとまた健康を害して、再びこの丘の上へ戻ってくるのだという。
夜になると、このステッキで、町まで散歩へ行くのです。道をどれかひとつえらんで、街灯の列をずっとたどってゆく。こうやってね。ショーウィンドーのまえで立ちどまり、誰かに会い、あいさつを交わしているつもりになります。町を歩くとき、たまには思い出してくださいね。わたしのステッキが、あなたがたのあとをたどっていることを…(「おいしい空気」)
「マルコヴァルドさんの四季」は、現代社会の中で生きることの難しさを描いた物語だが、それは現代社会への警鐘ではあっても、現代社会そのものの否定ではない。
自然と共存できる隙間を探す役割こそが、マルコヴァルドさんには与えられていたのではないだろうか。
そして、この物語が、日本では高度経済成長期の前夜とも言える1952年(昭和27年)から1963年(昭和38年)にかけてのイタリアで書かれたものであるということことにも、ぜひ注目しておきたいと思うのである。
書名:マルコヴァルドさんの四季
著者:イタロ・カルヴィーノ
訳者:関口英子
発行:2009/6/16
出版社:岩波少年文庫