サリンジャー「対エスキモー戦争の前夜」読了。
本作「対エスキモー戦争の前夜」は、1948年(昭和23年)6月『ザ・ニューヨーカー』に発表された短編小説である。
この年、著者は29歳だった。
作品集としては、1953年(昭和28年)にリトル・ブラウン社から刊行された『ナイン・ストーリーズ』に収録されている。
純真無垢な若者との対話
本作「対エスキモー戦争の前夜」は、鬱屈した気持ちを抱える少女が、純真な若者との会話を通して、無垢だった頃の自分を取り戻すという、再生の物語である。
15歳の女子高生<ジニー・マノックス>は、クラスメートの<セリーナ・グラフ>と、タクシー代のことでトラブルになる。
テニスの後のタクシー代を割り勘で払ってくれないセリーナに、ジニーはひどく腹を立てていたのだ。
「ときどきジニーはセリーナを殺してやりたいと思う」くらいで、とうとうジニーは、これまでのタクシー代を割り勘で払うよう要求する(なにしろ、女子高生なのでトラブルがかわいい)。
母親が肺炎で寝こんでいると聞いても、「わたしが感染したんじゃないわ」と言ってジニーは容赦なく借金を取り立てるため、セリーナの家へ上がりこむ。
ここまで、ジニーはひどく心の狭い、意地悪な女の子である(もちろん、相手のセリーナも十分に食えない女の子なのだが)。
ところが、ジニーが席を外している間に現われたセリーナの兄<フランクリン>との会話が、彼女を別人のように蘇らせてしまう。
この小説のポイントは、間違いなくジニーとセリーナとの会話だ。
「うちの姉、どんな顔してるか言ってごらんなさいよ」ジニーは繰り返してそう言った。「自分で思ってるのの半分も美人だったら、まあ運がいいほうだな」と、セリーナの兄は言った。(サリンジャー「対エスキモー戦争の前夜」野崎孝・訳)
「男」なのか「男の子」なのか分からないような不思議な容姿のフランクリンは、ジニーの前でも平気で、ジニーの姉<ジョーン>の悪口を言う(彼はかつてジョーンにフラれていた)。
女の子に気にいられようなんて、これっぽっちも考えていない自然体の会話だ。
さらに、フランクリンの髪はひどい寝ぐせで乱れていて、不精髭も伸ばし放題だったが、若い女の子を前にしても、彼に恥ずかしがる様子はまったくない。
純真なフランクリンと話を続けていく中で、二人の心は少しずつ通い合っていく。
フェーズが変わったのは、しばらく相手の様子を見守っていたジニーが、不意に「触っちゃだめ」と、大きな声を出した瞬間だろう。
びっくりしたフランクリンは、「昼飯もう食った?」と言って、半分残っているチキン・サンドをジニーにくれる。
さらに、フランクリンの後に姿を現した<エリック>との会話が、ジニーの気持ちの変容を一層促す役割を果たしている。
このフランクリンの友人は、フランクリンと真逆に、女の子のご機嫌を取るような当たり障りのない話題で場をつなぎ、隙あればジニーと仲良くしようと頑張るが、ジニーはまったく相手にしない。
名前を尋ねられてもナチュラルにスルーし、受けた質問には「いいえ」「いいえ」「いいえ」と、心を閉じた回答を繰り返す。
俗っぽいエリックと会話をすることで、ジニーはフランクリンの純粋な心を再確認し、フランクリンに対する評価を確実なものとする。
やがて現れたセリーナに、「あのお金、やっぱし要らないわ」とジニーは言う。
そして、「晩ごはんの後で電話するわ」と言って、セリーナ家を後にするのだが、ジニーは冒頭に出てきたジニーとはすっかりと別人のようである。
フランクリンとの会話は、ジニーにとって、あるいはカウンセリングのようなものであったのかもしれない。
この物語が「数年前、復活祭の贈物にもらったひよこが、屑籠の底に敷いた鋸屑の上で死んでいるのを見つけたときにも、捨てるのに三日もかかったジニーであった」という一文で終わっているのは、ジニーが優しい気持ちを持っていた「数年前」の頃のジニーに復活したことを暗に示しているからだ。
宗教的に解釈すると、無垢なフランクリンは聖者のような存在であったと考えることもできるだろう。
サリンジャーの戦争批判の精神
作品タイトル「対エスキモー戦争の前夜」は、フランクリンの言葉に由来している。
「こんだエスキモーと戦争するんだ。知ってるか、あんた?」「どことですって?」と、ジニー。「エスキモーだよ」(サリンジャー「対エスキモー戦争の前夜」野崎孝・訳)
本作が発表された1948年(昭和23年)といえば、第二次世界大戦が終結して、まだ三年しか経っていない。
そんな時代に、アメリカが再び戦争をすると言う。
しかも相手はエスキモーだが、アメリカがエスキモーと戦争することはあり得ないし、裏を返すと、それは、何の意味も持たない「無意味な戦争」である。
あるいは、それは「ホッキョクグマ軍との戦争」や「ペンギン連合との戦争」でも良かったかもしれない。
戦争で辛い思いをしたフランクリンは、強烈な皮肉を込めて「我がアメリカ、次はエスキモーと戦争をやるんだぜ」と、戦争に参加したアメリカの姿勢を厳しく糾弾しているのである。
さらに、フランクリンは、次に戦争へ行くのは年寄り連中だと言う。
「今度の戦争にはな、年寄り連中がみんな行くんよ。六十ぐらいの奴らがな。六十ぐらいでないと行かしてもらえないんさ」と、彼は言った。「寿命縮めてやるのが狙いってわけ。……名案だぜ」(サリンジャー「対エスキモー戦争の前夜」野崎孝・訳)
第二次世界大戦を指揮し、若い世代を戦場へと送り込んだのは、もちろん政権や軍部の年寄り連中だっただろう。
フランクリンは、自分たちに悲惨な経験をさせた年寄り連中に対して、ひどく腹を立てているのだ。
それは、戦争そのものに対する怒りでもある。
本作「対エスキモー戦争の前夜」は、サリンジャーの持つ戦争批判の精神が顕著に現れているという意味でも、注目すべき作品と言えるだろう。
ただし、戦争への皮肉は、いわば副産物であって、主題はやはり女子高生ジニーの復活と再生である。
ジニーとの会話を通して、傷付いたフランクリン自身が癒されているということにも注目したい。
対話を通して相互に治癒を進めていくことができるのだとしたら、恋愛とは(あるいは友情とは)非常に優れた相互カウンセリングのようなものなのではないだろうか。
人間と人間との心の交流の持つ重要な役割を、この小説は寓話的に気づかせてくれるのである。
作品名:対エスキモー戦争の前夜
著者:J.D.サリンジャー
訳者:野崎孝
発行:1974/12/20(1988/1/30改版)
出版社:新潮文庫