読書体験

小林多喜二「蟹工船」地獄の中で生き続けるワーキングプアの怒りと絶望

小林多喜二「蟹工船」地獄の中で生き続けるワーキングプアの怒りと絶望

小林多喜二「蟹工船」読了。

本作「蟹工船」は、1929年(昭和4年)5月~6月『戦旗』に発表された長篇小説である。

この年、著者は26歳だった。

2009年(平成21年)、SABU監督により映画化(出演は松田龍平、西島秀俊など)。

2008年の蟹工船ブーム

小林多喜二『蟹工船』は、昭和初期のプロレタリア文学を代表する作品である。

その作品が二度目のブームを迎えるのは、作品発表からおよそ90年後となる2008年(平成20年)のことだった。

ポイントはいくつかある。

2008年(平成20年)1月9日付け『毎日新聞(朝刊)』文化欄に、高橋源一郎と雨宮処凛の対談が掲載された。

【雨宮】蟹工船がリアルに感じられるほど、今の若い人の労働条件はひどい。派遣で働いて即ネットカフェ難民になる例もある。今の貧困層には、いつどん底に落ちるかわからない不安があります。(高橋源一郎・雨宮処凛「格差社会:08年の希望を問う」/『毎日新聞』2008/01/09)

それは「ワーキングプア」が社会問題となる「格差社会」の時代だった。

「格差社会」は、2006年(平成18年)の新語・流行語大賞のトップテンにランクインした言葉である。

『NHKスペシャル ワーキングプア ~働いても働いても豊かになれない~ 』は、2006年(平成18年)7月23日の放送。

放送当時、「ワーキングプア」と呼ばれる働く貧困層が急激に拡大していた。生活保護水準以下で暮らす家庭は、日本の全世帯のおよそ10分の1、400万世帯ともそれ以上ともいわれていた。都会では住所不定無職の若者が急増、定職に就けず日雇いの仕事で命をつないでいた。(NHKアーカイブス)

2007年(平成19年)には、新語・流行語大賞のトップテンに「ネットカフェ難民」がランクインしている。

1993年(平成5年)から2005年(平成17年)にかけて、正規職員として就職できずに新社会人となった「氷河期世代」が、20代~30代前半の「若者層」に溢れていた。

日本の現代史に残る「どん底の時代」である。

プロレタリア文学だったはずの『蟹工船』が、リアルな物語として若者たちに支持された。

【高橋】意外なことに、学生の感想は「よく分かる」だった。僕は以前、「昔はプロレタリアというものがいたんだよ」と、この小説を歴史として読んだけれど、今の子は「これ、自分と同じだよ」となるんですね。(高橋源一郎・雨宮処凛「格差社会:08年の希望を問う」/『毎日新聞』2008/01/09)

1990年(平成2年)のバブル崩壊以来、日本経済は暗闇の底を這いずっていた。

未来を生きる若者たちに「未来」はなかった。

2008年(平成20年)は、暗黒の日本を象徴する一年だったと言っていい。

「リーマン・ショック」から「派遣切り」が横行し、年末の日比谷公園には、生活困窮者のための「年越し派遣村」が登場した(まるで昭和初期の「ルンペン列車」のように)。

2009年(平成21年)の民主党政権は、このような歴史的文脈の中から生まれたものだ。

高橋源一郎と雨宮処凛の対談の影響か、この年(2008年)、新潮文庫『蟹工船・党生活者』がベストセラーとなった。

2008年(平成20年)の新語・流行語大賞のトップテンに「蟹工船」が入賞した。

受賞者は、『蟹工船』のポップを書いてブームに貢献した『ブックエキスプレス ディラ上野店』店員の長谷川仁美である。

「ワーキングプア? ちょっと待って、この現状、もしや……『蟹工船』じゃないか?」(ブックエキスプレス ディラ上野店)

『蟹工船』は、現代を生きる若者たちにとってのリアルだった。

【雨宮】プロレタリア文学が今や等身大の文学になっている。(高橋源一郎・雨宮処凛「格差社会:08年の希望を問う」/『毎日新聞』2008/01/09)

古典だった『蟹工船』は、なぜ、若者たちの「現代文学」として復活したのだろうか?

北オホーツク海を行く「蟹工船」は、社会の中の「糞壺(クソつぼ)」の象徴である。

漁夫の「穴」に、浜なすのような電気がついた。煙草の煙や人いきれで、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまま「糞壺」だった。区切られた寝床にゴロゴロしている人間が、蛆虫のようにうごめいて見えた。(小林多喜二「蟹工船」)

彼らは「糞壺」の中で生きる「うじ虫」だった。

通路には、林檎やバナナの皮、グジョグジョした高丈、鞋、飯粒のこびりついている薄皮などが捨ててあった。流れの止った泥溝(どぶ)だった。(小林多喜二「蟹工船」)

小説『蟹工船』の価値は、細部のディテールにある。

「流れの止まったドブ」の中で、彼らは生きていた。

薄暗い中で、漁夫は豚のようにゴロゴロしていた。それに豚小屋そっくりの、胸がすぐゲエと来そうな臭いがしていた。「臭せえ、臭せえ」「そよ、俺だちだもの。ええ加減、こったら腐りかけた臭いでもすべよ」(小林多喜二「蟹工船」)

生きながらにして腐っていく者たち、それが彼らだった。

社会にとっては彼らの価値などあってないようなものだ。

蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホツクの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいいことだった。(小林多喜二「蟹工船」)

社会にとって、彼らは「使い捨て」でさえなかったかもしれない。

蟹工船は「工船」(工場船)であって「航船」ではない。だから航海法は適用されなかった。(略)それに、蟹工船は純然たる「工場」だった。然し工場法の適用も受けていない。それで、これ位都合のいい、勝手にできるところはなかった。(小林多喜二「蟹工船」)

ある意味で、彼らは「社会の調整弁」として必要とされていたのだ。

蟹工船という地獄の中で、彼らは生き続けていた。

夢精をするのが何人もいた。誰もいない時、たまらなくなって自涜をするものもいた。──棚の隅に、カタのついた汚れた猿股や褌が、しめっぽく、すえた臭いをして円められていた。(小林多喜二「蟹工船」)

彼らの生命力は「臭い」によって確認されることが多い。

腐ったような饐えた臭いは、彼らが「生きている」ことの証明だったのだ。

皆は、夕飯が終って、「糞壺」の真中に一つ取りつけてある、割目が地図のように入っているガタガタのストーヴに寄っていた。お互の身体が少し温ってくると、湯気が立った。蟹の生ッ臭い匂いがムレて、ムッと鼻に来た。(小林多喜二「蟹工船」)

シラミの焼ける臭いさえ、彼らには「生きていること」を意味していた。

寝る前に、漁夫達は垢でスルメのようにガバガバになったメリヤスやネルのシャツを脱いで、ストーヴの上に広げた。囲んでいるもの達が、炬燵のように各々その端をもって、熱くしてからバタバタとほろった。ストーヴの上に虱や南京虫が落ちると、プツン、プツンと音をたてて、人が焼ける時のような生ッ臭い臭いがした。(小林多喜二「蟹工船」)

死んだ人間から、シラミは離れてしまう。

湯灌をしてやるために、着物を解いてやると、身体からは、胸がムカーッとする臭気がきた。そして無気味な真白い、平べったい虱が周章ててゾロゾロ走り出した。(小林多喜二「蟹工船」)

彼らが生きているところ、それは「地獄」だった。

『蟹工船』は生きながらにして地獄を見た者たちのドキュメンタリーである。

「おい、地獄さ行ぐんだで!」二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。(小林多喜二「蟹工船」)

現代を生きる若者たちにとって、現代社会はそのまま「現代の蟹工船」である。

そこは社会の中の「糞壺」であり、彼らは糞壺の中で生きる「蛆虫」だった。

2008年(平成20年)の「蟹工船ブーム」、それは「流れの止まったドブ」の中から救いを求める若者たちのSOSとして理解することができる。

怒りと絶望の中で、彼らは現代社会を生きていたのだ。

北海道開発の黒歴史

「蟹工船」は、社会の最底辺を象徴する存在として描かれている。

「お前は何処だ」「××町」みんな同じだった。函館の貧民窟の子供ばかりだった。(小林多喜二「蟹工船」)

行き場のない者たちが、蟹工船には集まってきた。

それは、社会から見棄てられた者たちの墓場とも言える。

夕張炭鉱から逃げてきた男がいた。

監督や工夫が爆発が他へ及ばないように、坑道に壁を作っていた。彼はそのとき壁の後ろから、助ければ助けることのできる炭抗夫の、一度聞いたら心に縫い込まれでもするように、決して忘れることのできない、救いを求める声を「ハッキリ」聞いた。(小林多喜二「蟹工船」)

生きたまま埋められてしまう安っぽい生命。

そこでは、炭鉱夫たちの命が使い捨てにされていたのだ。

百姓から漁夫へと転身した男たちがいた。

朝暗いうちから畑に出て、それで食えないで、追払われてくる者達だった。(略)彼等は、身寄りのない雪の北海道で「越年(おつねん)」するために、自分の身体を手鼻位の値で「売らなければならない」。(小林多喜二「蟹工船」)

それは、人生を賭けた「居場所探し」だったと言っていい。

行き場のない人生の行き止まりが「北海道」という北の果てだったのだ。

貧しい学生たちは、斡旋屋に(騙されて)送りこまれたらしい。

学生は十七、八人来ていた。六十円を前借りすることに決めて、汽車賃、宿料、毛布、布団、それに周旋料を取られて、結局船へ来たときには、一人七、八円の借金(!)になっていた。(小林多喜二「蟹工船」)

「周旋屋」は、良質の労働力を確保するために必要な社会システムとして機能している。

蟹工船に乗っている漁夫のほとんどは、どこかで労働者として働いた経験を持っていた。

「国道開たく」「鉄道敷設」の土工部屋では、虱より無雑作に土方がタタキ殺された。虐使に堪えられなくて逃亡する。それが捕まると、棒杭にしばりつけて置いて、馬の後足で蹴らせたり、裏庭で土佐犬に噛み殺させたりする。それを、しかも皆の前でやってみせるのだ。(小林多喜二「蟹工船」)

それは、労働者の命が安売りされる時代だった。

飯を食っていると、急に、裏で鋭い叫び声が起る。すると、人の焼ける生ッ臭い匂いが流れてきた。「やめた、やめた。──とても飯なんて、食えたもんじゃねえや」(小林多喜二「蟹工船」)

現在では「美しい観光都市」を誇る北海道は、労働者の犠牲の上に開拓された土地である。

港湾都市・小樽で貧しい少年時代を過ごした小林多喜二は、労働者の生き様に大きな関心を持っていた。

北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木もそれはそのまま一本一本労働者の青むくれた「死骸」だった。築港の埋立には、脚気の土工が生きたまま「人柱」のように埋められた。(小林多喜二「蟹工船」)

彼の暮らした小樽にも、タコ部屋によって築かれた「小樽築港」がある。

北海道開拓は「国家的な大事業」だったから、彼らは「国家」の名の下に殺されていった。

内地から移住してきた「移民百姓」たちは、荒れた土地をあてがわれて「北海道開拓」を進めていく。

雪の中に埋められて、馬鈴薯も食えずに、一家は次の春には餓死することがあった。それは「事実」何度もあった。雪が溶けた頃になって、一里も離れている「隣りの人」がやってきて、初めてそれが分った。口の中から、半分嚥みかけている藁屑が出てきたりした。(小林多喜二「蟹工船」)

北海道開発の歴史は、そのまま「北海道の黒歴史」でもある。

いったい、北海道の黒い歴史は、いつから忘れられてしまったのだろうか(もちろん、近年になってからだ)。

彼等は少しでも金を作って、故里の村に帰ろう、そう思って、津軽海峡を渡って、雪の深い北海道へやってきたのだった。──蟹工船にはそういう、自分の土地を「他人」に追い立てられて来たものが沢山いた。(小林多喜二「蟹工船」)

近代になって急速に開発が進められた北海道は、プロレタリア文学の故郷である。

北海道開発を中心的に担った者たちが、つまり、プロレタリアートだったのだ。

「黙って殺されていない労働者」が団結する内地と違い、北海道の労働者は無教養の上に知恵が足りなかった。

彼らは「雪ダルマ」のように苦しみを身体に背負いこんでいく。

本作『蟹工船』は、無抵抗だった労働者たちが、地獄の苦しみの中で「抵抗」を始めるまでの経過を描いた、反逆の物語である。

あれから100年近い年月が経った。

2008年(平成20年)の「蟹工船ブーム」からでさえ、既に20年が経過しようとしている。

果たして、日本は変わったのだろうか?

今、日本は「失われた30年」を乗り越えて、新しい歴史を刻み始めようとしているように見える。

歴史は、いつでも現代に期待していた。

「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」(小林多喜二「蟹工船」)

若者たちに未来がないという国に、もちろん、未来などあるはずがない。

「蟹工船」の世界は、永遠の黒歴史でなければならないのだ。

「蟹工船ブーム」が二度と起こらないような明るい未来を、我々は築いていくことができるだろうか。

書名:蟹工船・党生活者
著者:小林多喜二
発行:1953/06/28(2003/6/25改版)
出版社:新潮文庫

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懐新堂主人
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。