泊原発の再稼働に知事が同意したとき、僕はこんなことを思っていた。
川上弘美の『神様 2011』のことなんか、みんなもうすっかり忘れてしまったんだろうな、と。
いかにも人間らしい心温まるエピソードが、歴史の中でまたひとつ生まれただけだ。
『銀河鉄道の夜』のブルカニロ博士
川上弘美の「神様」を読むとき、僕はいつも宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を思い出す。
みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」初期形第三次稿)
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、完成形のはっきりしない「謎の名作」で、上記の「初期形第三次稿」は、現在ではほとんど読むことができない。
現在、流通している『銀河鉄道の夜』は「第4次稿(最終形)」によることが一般的だからだ。
ブルカニロ博士は「第4次稿(最終形)」で消えてしまった登場人物だが、僕の中の『銀河鉄道の夜』は、ブルカニロ博士の『銀河鉄道の夜』である。
異教徒としての「くま」
「神様」に登場する「くま」は、人間とは異なる神様を信仰する、異教徒としての「くま」だ。
昨年の「クマ騒動」を見るまでもなく、猛獣であるクマと人間との共存は、本来不可能なものだと言われる。
それでも「神様」の中に登場するくまは、人間への配慮に富み、人間との間に友好的な関係を構築しようと努力していた。
異なる神様を信仰することが交流の障害になってはならないというメッセージが、そこにはある。
むしろ、異なる神様を信仰する人々の間でも、友好関係を構築することは可能なんだということを示す、ひとつの希望が「神様」という小説だった。
「お互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう」というブルカニロ博士の言葉が、この物語では証明されていたのではないだろうか。
1994年に「神様」でデビューしたとき、作者は36歳の主婦だった。
「希望の物語」から「絶望の物語」へ
その「神様」が「神様 2011」として復活するきっかけとなったのが、「3.11」東日本大震災によって発生した福島第一原子力発電所事故だった。
原発の是非について口を閉ざす作家が多い中、川上弘美は2011年9月、既に『神様 2011』を出版している(初出は『群像』2011年6月号)。
原発事故に対する激しい怒りが、この作品にはある。
くまは305号室の前で、袋からガイガーカウンターを取り出しながら言った。まずわたしの全身を、次に自分の全身を、計測する。ジ、ジ、という聞き慣れた音がする。(川上弘美「神様 2011」)
放射線被ばくという危険性の中で暮らす人間とくま。
「希望の物語」は、原発事故によって「絶望の物語」へと変化したのだ。
そして、その絶望は決してSF的近未来の絶望ではなく、現在進行形の絶望だった。
我々の生きている世界の脆さが、そこには描かれている。
今日の平和は絶対的なものではないし、平和な日常はいつでも崩壊し得るという警告。
それを教えてくれたのは、2011年の福島原発事故だった。
斉藤和義が「ずっとウソだった」を歌い、原発の復活はもはや不可能なのではないかと、あのとき、誰もが考えたはずだ。
もちろん、そんなことはなかった。
人間は反省しない動物であるという歴史は、思った以上に早くやってきたのだ。
文学の神様に祈る
福島原発事故から15年が経ち、原発の危険性に対する社会的不安は、ほぼ消えたと言っていい。
何かが解決したわけではない。
ただ単に時間が経過しただけのことだ。
「神様 2011」は既に過去の遺物となり、あのときの緊迫感を、僕たちはもはやなかったことにしようとしている。
たった15年という時間の中に、物語は飲みこまれてしまったのだ。
あるいは、文学には限界があるということなのかもしれない。
それでも、僕は、文学の可能性を信じたいと思う。
くまには「くまの神様」があるように、文学には「文学の神様」があるのだと。
人間の記憶は過去を忘れてしまうけれど、小説は消えてなくなったりはしない。
そこに僕たちの強い不安があったということを、「神様 2011」は永遠に刻み続けてくれるはずだ。
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