大正末期から昭和初期にかけて、広がりつつある東京郊外の住宅地に出現したのは、「プチブルジョア(小市民)」と呼ばれるホワイトカラーの中産階級だった。
公務員や銀行員、会社事務員、教員などの給与生活者だった彼らは、標準的な日本の市民として社会の中核となり、多くの文学作品の中に登場するようになる。
本書「郊外の文学誌」は、「東京郊外」という地域に注目しながら、中産階級で生きる人々の暮らしぶりの変化を検証する中で、文学と社会と個人との関係をあぶり出そうとしている。
平成12年に「新潮」に連載された本作品は、各章ごとに東京郊外で暮らした文学者の作品を柱に据えながら、多くの文学作品を引用して東京郊外の移り変わりの様を解説していくが、近代文学史に登場するほとんどの文学者の作品には、東京郊外が描かれているのではないかと思われるほどに、登場作家は多く、引用された文学作品は膨大である。
そして、連載当時に「東京郊外の文学」を現役で描き続けていたのが、庄野潤三だった。
「『夕べの雲』から最近の『山田さんの鈴虫』に至る“丘の上に憩いあり“と呼びたいような平穏な暮しこそ、「理想化された郊外」そのものである」と、著者(川本三郎)は指摘しているが、ある意味において、明治末期の近代文学から平成の庄野文学にまで連なる「郊外の文学史」を丁寧に紐解いていくことこそが、本書の目的だったのかもしれない。
著者の意図とは異なるかもしれないが、本書一冊で、東京郊外の「文学散歩」を充実したものとすることができるだろう。
「東京郊外」から文学を検証する
東京の郊外生活をよく描いている小説はなんだろうかと考えるとき、すぐに思い出すのは、石井桃子の児童小説『ノンちゃん雲に乗る』である。戦後すぐ、昭和二十二年に出版されたこの小説は、戦前の、まだ戦争の影におおわれていない平和な時代—昭和のはじめ頃の東京郊外に住む中産階級の一家の物語である。(「序 なぜ郊外か」)
本書「郊外の文学誌」は、序文に登場する「ノンちゃん雲に乗る」(石井桃子)に始まり、庄野潤三の膨大な「郊外小説」を紹介した「庄野潤三論」で終わる。
そして、その本体の部分(「新潮」に1年間連載された作品)では、多くの文学作品を引きながら、代々木や渋谷に始まり、大久保、世田谷、中野、荻久保、高円寺、阿佐ヶ谷、葛飾、小金井と、時代とともに広がり続けた「東京郊外」の様子を粘り強く検証していく。
時代は変わっても、検証の鍵となる言葉は、「東京市中」に対する「東京郊外」であり、その中心的な住民である「中産階級の人々」である。
一部の特別な「上流階級」や「下層階級」ではない「中産階級の人々」は、健全で静かで落ち着いた暮らしをしていて、その平穏な暮しの中に物語を編み出すのが、近現代の文学だった。
そう気がついたとき、「東京郊外」は文学作品の検証にとって、重要な観点のひとつとなった。
「郊外」という社会的な背景の中に、文学作品を読み解く作業が始まったのである。
生き続けていくことさえ難しい時代
庄野潤三は、九六年に単行本として出版された『貝がらと海の音』を皮切りに、以後、『ピアノの音』(97年)、『せきれい』(98年)、『庭のつるばら』(99年)、『鳥の水浴び』(00年)、『山田さんの鈴虫』(01年)『うさぎのミミリー』(02年)と毎年のように、この東京の郊外に静かに暮す老夫婦の日々を綴った連作を書いてきている。(「郊外に憩いあり 庄野潤三論」)
「郊外に憩いあり 庄野潤三論」は、平成14年11月号の「新潮」に掲載されているので、平成12年に連載された作品群とは、少し立ち位置が異なっている。
連載作品が、スポットに着目した俯瞰的な文学論であるのに対して、「郊外に憩いあり」は、完全に一人の作家にスポットを当てた作家論となっているからだ。
著者は、夫婦の晩年を描いた一連の作品群について「『貝がらと海の音』にはじまる庄野潤三のこの一連の小説は、とりあえずは、郊外に住む小市民一家の日々の幸福を綴った家庭小説ということが出来るだろうが、それだけではおさまり切れない深い味わいがある。ほぼ、現実の庄野家の家族を描いているのだから私小説ともいえるが、これもまた、それだけではとらえきれないものがある」と評している。
「そもそもこれは小説なのか。あるいは、日記、それとも随筆なのか」に始まる庄野文学の検証は、一連の作品に魅せられた人々が共有できるところだが、本論の主題は「東京郊外」を舞台として進められる平穏な一家の「幸福」についてである。
著者は「いうまでもなく「現実の幸福」と「描かれた幸福」とは違う」ことを前置きした上で、「庄野潤三が一連の「郊外小説」で書き続けているのは、あくまでも「現実の幸福」である」と指摘しているが、「選び取られた日常」は「虚構」であるが故に、平穏な暮らしを安定的に創造し続けることができるのかもしれない。
しかし、最も大切なことは、選択と削除によって構築された、平穏な「虚構の日々」が、多くの読者の支持を得て、長く連載を続けていたという事実だろう。
庄野文学の読者は、平穏な暮らしと背中合わせにあるはずの「不安の影」を感じ続けながら、「虚構の日々」と向き合っていた。
そうでもしなければ、生き続けていくことさえ難しい時代、それが「平成という時代」だったからだ。
「庄野文学」は、この不安定な時代の「駆け込み寺」とも呼ぶべき居場所となっていないか。
我々は、庄野潤三の「平穏な郊外小説」の中にあるものを、もう一度読み解いてみる必要がありそうだ。
書名:郊外の文学誌
著者:川本三郎
発行:2003/2/25
出版社:新潮社