読書体験

村上陽子「風のなりゆき」村上春樹夫人のヨーロッパ紀行写真集に夫は登場しない

村上陽子「風のなりゆき」村上春樹夫人のヨーロッパ紀行写真集に夫は登場しない

村上陽子「風のなりゆき」読了。

本作「風のなりゆき」は、1991年(平成3年)2月にリブロポートから刊行された写真集である。

この年、著者は43歳だった。

最初で最後の写真集

村上春樹の「元気な女の人たちについての考察」というエッセイに、奥さんの仕事についての話が出てくる(『やがて哀しき外国語』所収)。

ヨーロッパに住んでいるときにはうちの奥さんは、僕が旅行記を書くための記録カメラマンのような役をしていたのだけれど、後日それに目をとめてくれた人がいて、小さな写真集のようなものを出したことがある。(村上春樹「元気な女の人たちについての考察」)

「小さな写真集のようなものを出したことがある」と書かれているものが、今回紹介する『風のなりゆき』である。

そう、村上陽子さんとは、つまり、村上春樹夫人のことなのだ。

簡単なプロフィールが掲載されている。

村上陽子(むらかみようこ)
1948年、東京生まれ。早稲田大学文学部卒業。1986年から89年にかけての3年間、夫の仕事の関係でイタリアとギリシャに住む。出発直前、夫からα-9000をプレゼントされたのをきっかけに写真を撮り始める。渡欧中、各地に旅行。行く先々で出会う動物と人々をカメラに収める。趣味は日本料理。(村上陽子「風のなりゆき」)

著者の夫が「村上春樹」であることは、どこにも書かれていない。

この本は、あくまでも「村上陽子」という一人の女性写真家による写真集なのである(簡単なエッセイ付き)。

各地で撮影された野良猫の写真が多い(夫と同じように、夫人も猫好きなのだろう)。

夏の観光地であるミコノス島では、しわよせは冬にやって来る。停電、断水は冬のお馴染みだ。電気しか熱源がないので料理はあきらめ、街灯ひとつない真っ暗な街に散歩に出る。(村上陽子「風のなりゆき」)

ギリシャやイタリアの生活は、村上春樹の紀行集『遠い太鼓』(1990)にも書かれているものだ。

【読書日記】村上春樹「遠い太鼓」│『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』誕生秘話
【読書日記】村上春樹「遠い太鼓」│『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』誕生秘話村上春樹「遠い太鼓」読了。 本作「遠い太鼓」は、1990年(平成2年)6月に講談社から刊行された旅行記である。 この年、著者...

ベランダで蛸を干している写真があったりするので、『遠い太鼓』とセットで読んだ方が楽しいかもしれない。

蛸は家に持ち帰って干される前に、漁師が何度も何度も岩に叩きつけて柔らかくする。蛸が固いのはどこの海でも同じらしく、ハワイでは洗濯機に水を張って蛸をまとめて入れて回すのだそうだ。(村上陽子「風のなりゆき」)

ある意味で、紀行エッセイみたいなものなので、外国の生活が感じられる文章がいい。

スペッツェス島にて。釣り人と娘。スペッツェス島にて。釣り人と娘。

釣りをしている父親を迎えに来たらしい娘の写真(スペッツェス島)なんかも、地元の生活感がたっぷりと漂っている。

もちろん、地元の生活のすべてが、写真に写るわけではない。

イタリアの田舎を走っている時、聞こえてきた鈴の音に思わずカメラを向けた。夢見るような風景だったはずなのに、写っていたのはただの汚い白い羊だった。(村上陽子「風のなりゆき」)

古い鈴のメロディーも、写真には残らなかったものらしい。

デロス島の羊を写したときは「無音」を撮るつもりだった。島はとても静かで時折り風が吹くと、羊のふわふわした毛が揺れる音が聞こえるような気がしたものだ。(村上陽子「風のなりゆき」)

味や音や匂い。

写真で撮影することのできなかったものに、作者は敏感に反応している。

ベランダで蛸を干す。ベランダで蛸を干す。

ギリシャでは毎日同じ服を着ていた。

同じ服を着つづけていると、服は単なる服でしかなくなる。着ないで済めばいちばんよいのだけれど、まあそうもいかない。久し振りにボロボロになるまで服を着た。(村上陽子「風のなりゆき」)

昼寝の前に洗濯をして干しておくと、目が覚めたときには、もう乾いている。

ギリシャ人が、毎日服を着替えないのは、そんな気候がもたらした習慣なのかもしれない。

ところで、都会の街(ローマ)で撮影された写真は少ない。

イタリアでは、あらゆる車が思いつく限りの表情をして元気いっぱい道を走っている。私はひとめでチンクェチェント(フィアットの500)が好きになった。(村上陽子「風のなりゆき」)

作者の関心は、やはり、東京はまったく異なる風土の島へと向いていたのかもしれない。

ギリシャやイタリアを吹く海風を感じることのできる写真集。

もっとも、作者は、それほど熱心にカメラを極めたかったわけでもないらしい。

もっとも本人は「カメラやら交換レンズやらは重くてかさばるし、フィルムの感度やら絞りやら何やらのことをいちいち考えるのは鬱陶しいし、写真なんて当分嫌だ。そんな面倒なこと抜きでのんびりと旅行したい」と言っているのだけれど、そういうことはもちろん伏せておく。(村上春樹「元気な女の人たちについての考察」)

その後、村上陽子名義の写真集が出版されることはなかった。

そういう意味でも貴重な、ヨーロッパ旅行の記念アルバムである。

村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた

村上春樹『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』(1996)村上春樹『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』(1996)

次に、写真家・村上陽子の名前が登場するのは、村上春樹『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』(1996)が出たときだ。

「絵・安西水丸」と並んで「写真・村上陽子」のクレジットがある。

雑誌掲載時から、「なごやかに絵日記風にやれるといいね」ということで、安西水丸さんのイノセント・アート風の絵と、うちの奥さんの素人スナップ写真をつけて発表されていました。写真は本の読者のために、雑誌のときとは少し違ったものを選びました。(村上春樹「村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた」)

本作『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』は、アメリカ・ケンブリッジに住んだ1993年(平成4年)から1995年(平成5年)にかけての滞在記で、初出は、1994年(平成6年)7月~1995年(平成7年)10月『SINRA』だった。

写真は本の読者のために、雑誌のときとは少し違ったものを選びました」とあるので、村上陽子ファンは、掲載紙を集める意味あり。

書名:風のなりゆき
著者:村上陽子
発行:1991/02/20
出版社:リブロポート

ABOUT ME
kels
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。