倉本聰「北の国から ’87初恋」読了。
本作「北の国から ’87初恋」は、1987年(昭和62年)3月27日、フジテレビ系全国ネットで放送されたテレビドラマのシナリオである。
年老いた父親の挫折と敗北感
初めてテレビドラマを観たとき、僕は、この物語を、初恋に浮かれる中三男子の話だと受け止めていた。
だけど、今回シナリオを読んでみて、この物語は、年老いた父親の挫折と敗北感を描いたものだということに気が付いた。
『北の国から』の主人公は純ではなく、やはり、父親・黒板五郎だったのだ。
物語は、父親・黒板五郎のこんな苦悩から始まっている。
「先生、オラにはよくわからんのです」「あいつだら、本当に近頃ァオラが、話しようとしてもスッと避けるし」「先生、どうも情けない話だが、オラにはあいつが最近どうも、わからんようになってきとるンです」(倉本聰「北の国から ’87初恋」)
息子の気持ちが分からない父親の苦悩は、この物語の全編に流れる大きなテーマである。
こうした黒板五郎の苦悩の背景にあるものは、一体なんだろうか。
ひとつは、東京を棄てて故郷に帰ってきた男の、大自然の中での非文明的な生活である。
電気も通わない森の中での不便な生活は、若い時分には気力と体力で乗り越えることができただろうが、男盛りを過ぎて、五郎は明らかに疲弊している。
そして、そんな生活の中での子育てが、五郎が抱える苦悩の、もうひとつの大きな背景である。
ただでさえ困難な非文明的な暮らしの中、片親で二人の子どもを育てることの難しさを、このドラマは物語っているのかもしれない。
「中ちゃんあいつは最近オレとは、ほとんどまともにしゃべろうとしないンだ」「正直オレには分からないンだ」「あいつが本心何考えてるのか」(倉本聰「北の国から ’87初恋」)
もちろん、どんな家庭であっても、息子が父親から巣立っていく瞬間は、必ずやってくる。
黒板五郎は、反抗期の子どもの気持ちを受け止めきれないでいるし、非文明的な暮らしと片親という家庭環境が、黒板純の自立を通常よりもずっと早く促したという側面もあっただろう。
純「(叫ぶ)情けないじゃないか! 父さん近頃本当に情けないよ! ボクがここから出たいンだってそういう父さんを見たくないからさ!」(倉本聰「北の国から ’87初恋」)
父親に反抗する純の目線でドラマを観ていたときと違って、息子に言い負かされている黒板五郎に感情移入してしまうっていうのは、自分もやっぱり、年を取ったということなんだろうなあ(笑)
関係ないけど、「子供がまだ食ってる途中でしょうが」で有名な『北の国から ’84夏』でラーメンを食べているときも、黒板五郎は「父さん、昔みたいなパワーなくしてた」と弱音を吐いている。
この辺の弱さが、主人公・黒板五郎の人間的な魅力なのかもしれない。
「オレは心のせまい男だから、お前のやり方に引っかかってる」と黒板五朗がつぶやくところも、本作『北の国から ’87初恋』の名場面のひとつ。
有名な「泥のついた二枚の一万円札」は、シングルファーザー・黒板五郎の敗北の証である。
それは、同時に、旅立っていく息子に示した父親としての、最後の威厳でもあったかもしれない。
家を出る純にかけた黒板五郎の言葉は、「くにへ帰ることは恥ずかしいことじゃない」だった。
考えてみると、黒板五郎もまた、富良野を棄てて上京しながら、再び故郷へと舞い戻ってきた男の一人だったんだよなあ。
反抗と自立を歌った尾崎豊
『北の国から ’87初恋』では、尾崎豊の楽曲が効果的に使われている。
若者たちの教祖的な存在だった尾崎豊が、一般社会へ強烈にアピールしたのが、このテレビドラマだったと言ってもいい。
尾崎豊の音楽は、言うまでもなく、若者たちによる大人社会への反抗の象徴である。
作中、大里れいとの交際を指摘された黒板純が、父親に向かって「いやらしいよすぐに! 大人はみんな、そういうふうにッ!」と叫ぶシーンがある。
あたかも自分自身が被害者で、大人を一般化して非難する手法は、尾崎豊の作品と相通じるものだ。
「純君、音楽きく?」「好きだよ」「だれが?」「尾崎豊」「本当!? 私も狂ってンの! ユタカの何好き?」「15の夜とか」「最高!」「セブンティーンズマップとか」「シェリー」「ああ」「それに卒業」「オレも好き」(倉本聰「北の国から ’87初恋」)
尾崎豊の作品は、反抗の歌であると同時に自立の歌でもある。
そして、このとき、二人はまさしく「15歳」だった。
黒板純もまた、かつて自分の父親が辿ったのと同じような自立の道を、歩き始めようとしていたのかもしれない。
書名:北の国から ’87初恋
著者:倉本聰
発行:1987/02
出版社:理論社