【文学散歩】小林多喜二『防雪林』の舞台・北村砂浜を歩く|防雪林と砂浜小学校の記憶
小林多宮二『防雪林』の舞台は、岩見沢市の幌向(ほろむい)にある。
作中の「東村(北濱村)」のモデルになったのが「北村砂浜」で、「停車場のある町」が幌向だった。
北村砂浜には、今、『防雪林』の面影が残されているのだろうか。
ヨーロッパトウヒの防雪林
札幌から岩見沢に向かって国道12号線を走って行くと、「豊幌(とよほろ)」の次に「幌向(ほろむい)」がある。
どうやら「豊幌」までが江別市で、「幌向」から岩見沢市ということになるらしい。
いずれも、駅の周辺は閑静な住宅街となっていて、駅とコンビニと住宅街が、セットになっているように見える。
JR北海道「幌向駅」を過ぎたところで、右手にセブイレブンのある交差点を左に曲がると、すぐに踏切にあたる。
踏切から見える線路脇には、背の高いヨーロッパトウヒが立ち並んでいて、これが小林多喜二の小説に登場する防雪林だと、すぐに分かった。
源吉は誰にも気付かれずに、防雪林が鉄道沿線に添って並んでいるところまで、走ってきた。防雪林の片側が火事の光を反射して明るくなっていた。(小林多喜二「防雪林」)
明治以来、地吹雪の激しい地域では、走行列車の視界確保のために防雪林を植林した。
こうした防雪林は、現在も道内各地で活躍し続けている。
北村砂浜のホッチャレ
踏切を越えて幌向町を抜けると、旧・北村地区の「北村砂浜」に出る。
突き当たりに出てくる川は、作中で重要な役割を果たす石狩川である。
主人公・源吉は、この川でホッチャレの鮭を密漁した。
装備も十分ではない大正時代に、まして晩秋の季節にこの川へ入ることを想像しただけで、体が冷たくなってくるような気がする。
「俺アだぢ来た頃なんてみんな取りてえだけ秋味(鮭)ばとったもんだ。夜、だまってれば、キュキュキュって、秋味なア河面さ頭ば出して泣くの聞えたもんだ」(小林多喜二「防雪林」)
鮭もここまで遡上してくれば、相当ボロボロになっているだろう。
そんなホッチャレでも密漁しなければ、生きていくことのできない生活が、かつてこの町にはあったのだ。
小林多喜ニが書いたのは、そんな開拓者たちの過酷な生活である。
旧・北村立砂浜小学校閉校記念碑
石狩川に沿って道を進むと、砂浜神社の手前に「旧北村立砂浜小学校閉校記念碑」があった。
『防雪林』では、この小学校で住民たちの会議が行われている。
貧しい住民たちに奮起を促したのも、小学校の校長先生だった。
「俺、いつでも不思議に思ってるのは、みんながこんなに貧乏しているのに、どういうわけでこんなに貧乏かってことが、誰も分っていないことだよ。なア、源吉君」(小林多喜二「防雪林」)
知識のない農民たちに知恵をつける役割が、インテリの校長先生には与えられていたらしい。
1997年(平成9年)4月に北村立北村小学校(現在の岩見沢市立北村小学校)へと再編された砂浜小学校の跡地には、かつて、ここに学校があったことを示す記念碑が建立されている。
敷地跡の広さから考えても、砂浜小学校が決して大きな学校ではなかったことが分かる。
もしかすると、砂浜は、あの頃よりもさらに静かな町になってしまったのかもしれない。
まとめ|現代の『防雪林』
現在の北村砂浜に、小林多喜二『防林』の面影を見つけることはできなかった。
あれから100年近い時が経っているのだ。
石狩川だって現代風にスマートにもなる。
なにしろ、開拓以来、一帯の歴史は石狩川との戦いだったらしい。
石狩川が年一度――五月には必ずはんらんして、その時は、いつでもその辺は水で一杯になったからだった。だから、そこへは五月のはんらんが済んでからでなくては、作物をつけなかった。(小林多喜二「防雪林」)
毎年の水害が開拓農民の暮らしを脅かし、そんな恐怖が、小林多喜二に『防雪林』を書かせたと言えるかもしれない。
未発表の習作『防雪林』は、やがて『不在地主』と形を変えて世に発表されることになる。
1929年(昭和4年)11月のことだった。
***
なお、本作『防雪林』については、次の記事で詳しく解説しています。
▶【文芸考察】小林多喜二『防雪林・不在地主』に描かれる北海道という場所性



