余市町「幸田露伴句碑」訪問。
「幸田露伴句碑」は、1955年(昭和30年)8月、余市郷土研究会によって建立された。
住所は、北海道余市郡余市町浜中町238、北海道立総合研究機構水産研究本部中央水産試験場の駐車場横である。
昭和35年に余市町を訪れた幸田文
木山捷平「銀鱗御殿の哀愁」(1966)に、余市町の幸田露伴句碑を訪ねた話が出てくる(『日本の旅あちこち』所収)。
碑はすぐに見つかった。が、碑に書いてある俳句が私にはなかなか読みきれなかった。折から白い上っ張りを着た女子職員が通りかかったのできいてみたが、女子職員は知らぬと言った。(木山捷平「銀鱗御殿の哀愁」)
木山捷平は、積丹町から小樽へ向かうバスに乗って「余市の入口の水産試験場前で途中下車した」と書いている。
読みきれなかった句碑の文字は、水産試験場の女性職員が、誰か分かる人に教えてもらったらしい。
作者の名は露伴で、俳句は「塩鮭(からざけ)のあ幾(あぎ)と風吹く寒さかな」と読むのだと教えられた。俳句の可否は私の知るところではなかったが、碑の背景が素晴らしかった。背景はすぐ海であった。(木山捷平「銀鱗御殿の哀愁」~『日本の旅あちこち』所収)
海を背景にした幸田露伴句碑は、現在も変わらず、水産試験場の駐車場横に、ひっそりと立ち続けている。
文学散歩で人気を得た作家・野田宇太郎からの評価は、あまりよろしくなかった句碑だ。
露伴が勤めた電信局のあとは余市の浜中町海岸の道立中央水産試験場となり、門を入った広場には昭和三十年八月に建てられた露伴の句碑がある。「塩鮭のあぎと風ふく寒さかな」の句碑が銅板に彫られているが、これは日本の民家ならどこの厨房でも見られた光景で、塩鮭と云っても何も北海道と特別の関係をこじつける必要はない。(野田宇太郎「余市の露伴」~『文学の故郷』所収)
「露伴が勤めた電信局」とあるのは、若き日の幸田露伴が、北海道余市町の電信局の技手として勤務していたことを示している。
父が余市電信局の技手として行っていたのは、明治十八年から二十年にかけての三年間、父は十九才から二十一才までであるが、その頃はまだ鰊がたくさん捕れていたらしい。(幸田文「さびしい記憶」)
露伴の娘で作家となった幸田文も、余市時代の父・露伴について書き残していて、1961年(昭和36年)7月号『文学散歩』に掲載された「さびしい記憶」は、殊に興味深い内容となっている。
いちばん閉口したのは風呂だったらしい。銭湯は羽目板にまでぎっしりと鱗がはりついていて、流し場は脂が光っている始末。なんのことはない、ぬるま湯へさかなを入れてかきまわしているに同じようなものなのだが、みんなが喜んで、労れて、そして興奮しているので、その生臭い風呂へとても文句をつける気にはなれなかったという。(幸田文「さびしい記憶」1961年7月号『文学散歩』掲載)
娘(あや)が、若き日の父が過ごした余市を訪れたのは、1960年(昭和35年)7月30日のことだった(幸田露伴は昭和22年7月30日に他界)。
昨年、娘夫婦がついて行ってくれるというので、七月三十日父の立ち日に合うようにして、なにかしきりに懐かしく、さびしく、そして依然として憚りあるものを感じつつ、余市についた。憚りもあったが、問うような気もあった。風景に問うつもりがあった。(幸田文「さびしい記憶」1961年7月号『文学散歩』掲載)
このとき、幸田文は、幸田露伴句碑も見学しているが、幸田家では、露伴の文学碑建立を必ずしも歓迎していなかったらしい。
今、余市のもとの電信局の跡に句碑がありますが、あれには困りましてね。句集には「からさけの」と「しおさけの」と二つあるんです。句碑は自筆からとった「塩鮭のあ幾と風ふく寒さ可那」となっていまして、「あぎと」いうのは魚のえら、あごのことだと私は思っているんで、辞書にもありますよというんですが、土地の人の中には「あぎと」は「秋と」と解釈していて、それはあぎとですと申しましても、そうじゃないと反対されるので、そうですかとひき下がってしまったんです。(幸田文「青年露伴と余市」1972年7月号『自然と文化』)
「あぎと」は、魚のえらのこと、あごのことだと説明しても、地元の人々は「秋と」のことだと言って譲らない。
どれだけ説明しても理解を得られないので、幸田文もとうとう馬鹿馬鹿しくなって、相手にするのを投げ出してしまったらしい。
露伴自筆の俳句「塩鮭のあ幾と風吹く寒さかな」
幸田文と余市へ同行したこともある野田宇太郎は、句碑そのものに否定的な見解を示している。
その形も自然石ながらいかにもわざとらしい感じで、これは文豪露伴の文学碑というよりも、露伴が勤めた電信局跡の目印として役立っているに過ぎない。しかしその碑の背後に石狩湾の海波がちらちらと輝いて、それがわたくしには露伴の若き日の瞳の輝きのようにも思われた。(野田宇太郎「余市の露伴」~『文学の故郷』所収)
野田宇太郎は、当時の文学碑ブームに、そもそも嫌悪感を抱いていたので、およそ観光物産的な文学碑には、とりわけ厳しい意見を持っていたのだろう。
もっとも、幸田露伴句碑の話は、1968年(昭和43年)に雪華社から刊行された『日本の旅路』にも登場する。
幸田文さんを伴って、野田宇太郎が余市を訪れたのは、1960年(昭和35年)10月6日のことだ。
露伴の勤めた電信局のあったところは、浜中町海岸の西端に当たり、余市港海岸線のほぼ真ん中、北海道水産試験場の構内になっている。海岸に面した広場に海を背にして自然岩をごてごてと寄せ固めたような碑が立っていて、その中心に色紙形をした銅版が黄色く光っていた。(野田宇太郎「積丹まで─余市の露伴を訪ねて」~『日本の旅路』所収)
「自然岩をごてごてと寄せ固めたような碑が立っていて」に悪意が感じられるが、「色紙形をした銅版が黄色く光っていた」というのは悪くない。
文さんの語るところによると、これは露伴がまだ老病の床についていなかった頃、最後までの弟子でもあった漆山又四郎の乞いに応じて書き送ったものとのことである。昭和二十二年七月三十日に露伴が長逝したあと、たまたま余市でも露伴との因縁が知られるようになると、郷土研究会というのが動きはじめて幸田家に建碑の筆跡を求めた。そのとき選ばれたのが、この句だという。(野田宇太郎「積丹まで─余市の露伴を訪ねて」~『日本の旅路』所収)
「塩鮭のあ幾と風吹く寒さかな」の句は、どうやら余市とも北海道とも関係のない可能性はあるが、余市の地に、幸田露伴の痕跡を示す句碑が残ったことの意味は小さくない。
何より輝く海を見下ろす句碑は、訪れる人々に、明治の文豪・幸田露伴への興味関心をそそってくれるに違いない。
森鴎外や夏目漱石に比べて、幸田露伴は決して現代的とは言えない作家である(文豪とは言え)。
作家が、作家として名前を残す方法は、その作品を残すより他に方法はない。
文学碑は、作家の遺した作品への入口であり、作品に触れることから、本当の文学散歩は始まるのだ
余市の海岸から始まる幸田露伴も、きっと悪くないと思うのだけれど。