読書

建築家・隈研吾と「ドリトル先生アフリカゆき」僕も獣医になりたかった

建築家・隈研吾と「ドリトル先生アフリカゆき」あらすじと感想と考察

毎日新聞朝刊の読書欄「なつかしい一冊」に、建築家・隈研吾のエッセイが掲載されていた。

懐かしい一冊はヒュー・ロフティング作、井伏鱒二訳の『ドリトル先生アフリカゆき』。

『ドリトル先生アフリカゆき』は、「ドリトル先生物語シリーズ」第一作目の作品で、アメリカでは1920年(大正9年)に、イギリスでは1922年(大正11年)に発表された。

日本では、戦争中の1941年(昭和16年)に、井伏鱒二によって翻訳刊行されたのが最初で、現在でも岩波少年文庫で井伏鱒二の訳を読むことができる。

隈研吾は「僕は子供の頃、獣医になりたかった。ピアノの先生の家が獣医で、かわいい犬や猫がいる家がうらやましかった。そして、この本を手にとった」と、ドリトル先生との出会いを回想している。

1954年(昭和29年)生まれの隈研吾が読んだのは、1951年(昭和26年)に岩波少年文庫から刊行されていた岩波少年文庫版だろうか。

「主人公のドリトル先生が、動物の言葉を喋れる獣医さんで、僕も大人になったら動物の言葉を勉強して、アフリカに行きたいと心に決めた」という隈研吾。

しかし、「そのしばらく後で、1964年の第一回の東京オリンピックの時に、丹下健三設計の代々木競技場の美しさにショックを受けた」隈研吾は、「獣医から建築家へと、志望を変更した」。

1964年の東京オリンピックの頃、隈研吾は13歳の中学一年生。

建築の道へ進んだ隈研吾だが、幼い日の夢は途絶えていなかったらしい。

「アフリカへの思いはずっと持ち続け、大学院時代に、集落調査という名目で、サハラ砂漠縦断の旅に出た」「アフリカの草原や砂漠の建築を訪ねることが、将来の日本の建築に、どんなヒントをくれるかはわからなかったが、なにしろアフリカに行きたかったのである」。

四輪駆動車で移動し、テントで野宿し、焚火で自炊しながらの旅は2か月に及び、隈研吾はアルジェリアからコートジボアールへと抜けていった。

「ここで100以上の集落を訪ね、その個性的で美しい集落達は、いまの僕の建築のベースになっている」と、隈は言う。

土や木の枝などの、地元で手に入る野生の素材でできた小さな小屋から、日本の若き建築家は、大きなインスピレーションを得たのだ。

しかし、アフリカ旅行が隈研吾に与えたものは、建築的な影響だけではなかった。

過酷なアフリカ旅行から隈研吾が得たもの、それは「村から村、人から人へと走り続けるリズム」だった。

アフリカを旅しながら、隈研吾は草原と砂漠に散らばる100の村を、誰かの紹介も許可証もなく訪ねて回り、現地の住民たちと出会い、挨拶を交わした。

「思い起こしてみれば」と、隈研吾は語っている。

「そのリズムは、勇敢でやさしいドリトル先生のリズムであった」

幼き日に憧れたドリトル先生のリズムで、隈研吾はアフリカの村を回り、多くの建築と出会った。

「僕の人生のリズムは、その旅の中で定まった」という建築家は、日本へ帰ってからも、村から村へと走り回り、人から人へと走り続けた。

すべての始まりは『ドリトル先生アフリカゆき』だったのだ。

児童文学が、人の一生に与える影響の大きさを思いながら、僕はこのエッセイを読んだ。

隈研吾さん、ありがとう。

庄野潤三作品にも登場するドリトル先生物語

「ドリトル先生物語」は、庄野潤三の「夫婦の晩年シリーズ」にも頻繁に登場する。

庄野家では、1962年(昭和37年)に全巻完結した岩波少年文庫版「ドリトル先生物語シリーズ」を揃えていて、特に、次男・和也が、この井伏鱒二訳のドリトル先生物語を愛読していたという。

だから、庄野家にあったドリトル先生物語は、和也が結婚して家を出た時に、庄野さんから和也へと引き継がれた。

和也の家では、お嫁さんのミサヲちゃんも、このドリトル先生シリーズを読んでいるし、和也の長女で、庄野さんにとって初めての孫娘であるフーちゃんも、ドリトル先生を愛読するようになる。

孫娘が読み始めたことをきっかけとして、高齢となった庄野夫妻もドリトル先生を読み始める。

ドリトル先生物語は、庄野文学とも深い繋がりのある作品なのだ。

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。