石川啄木を重要な観光資源にしている地域が、日本には(たぶん)二か所ある。
岩手県盛岡市と北海道釧路市である。
啄木の出身地である盛岡はともかく、釧路は、啄木にとって漂泊の途中に一時滞在した仮の宿に過ぎない。
それでも、石川啄木は、釧路にとって特別な存在となったらしい。
雪のない初冬の釧路で、啄木の足跡を辿ってみた。
釧路文学館の二大スターは原田康子と石川啄木
札幌から釧路までは、JR北海道の「特急おおぞら」を利用するのが一般的だが(2024年の春ダイヤから「全席指定席」となって道民には大きな不評を買っている)、冬のJR北海道は不安が大きい。
「冬こそJR」と自称していたのも昔の話で(あれは民営化されたばかりの頃だった)、近年は悪天候以外でも設備不良などといって、簡単に特急列車が運休するから油断できない。
幸い、釧路行きの特急おおぞらは、客車のドアが故障して使えなかったくらいで、無事に釧路まで走り通してくれた(当たり前のようで、決して当たり前ではない)。
札幌と違って、釧路にはまったく雪がなかった。
ちょうど、太平洋に夕陽が沈む時間に到着したこともあって、早速、幣舞橋まで夕焼けを観に行く(釧路は「世界三大夕日」で有名な町なのだ)。
釧路名物の「夕日ハイボール」と「ザンタレ」で簡単な夕食。
ザンギをタレにつけて食べる「ザンタレ」は、ホテルの朝食バイキングにも並ぶくらい、メジャーな釧路名物らしい。
翌日は、釧路市立図書館の六階にある釧路文学館からスタート。
この夏から秋にかけて、釧路文学館は「文アル」とのコラボ企画で、多くの来館者を確保したらしい(ちょっと観たかった)。
釧路文学館のスターは、地元出身の女流作家・原田康子と、漂泊の歌人・石川啄木の二人である(最近は直木賞作家・桜木紫乃も人気)。
釧路では、とにかく、あちこちに石川啄木の資料館(資料コーナー)がある。
歌碑に至っては、全部で25基も設置されているというからすごい(歌碑を全部回るだけで一日かかる)。
とにかく、町中に「石川啄木」が溢れている(地元・くしろバスの循環線の路線名も「たくぼく循環線」となっているほど)。
釧路の石川啄木巡りを本気でやろうと思ったら、ある程度の時間を確保しなければ難しいだろう(今回はもちろんそんな時間はない)。
昼食は、洋食レストラン「泉谷本店」のスパカツ。
熱々のミートソース・スパゲティの上に揚げたてのトンカツが乗った「スパカツ」は、釧路市民のソウルフードだ(最近の若い人はあまり食べないらしいけど)。
相変わらず、すごいボリュームだったけれど、なんとか完食。
昼時の泉谷本店は、さすがに賑わっていた。
夕方、北大通の古本屋「古書かわしま」で古本探し。
ずっと昔に訪ねたときには、店の名前が違っていたような気がする。
あの頃、僕はまだ出版社勤務をしていて、釧路の古本屋にも仕事で訪れたのだ。
古い岩波文庫と、古い新潮文庫を数冊買った。
わずか2か月で、石川啄木は釧路市のレジェンドとなった
釧路芸術館を見学した足で、港文館を訪ねる。
本来は、港湾関係の資料館らしいが、二階は石川啄木の展示室となっている。
ここも非常にマニアックな施設で、決して大きくはないが、じっくりと見学するなら1時間や2時間では終わらないだろう。
元は釧路新聞社の社屋だった歴史的建造物らしい(石川啄木はここに勤務していた)。
石川啄木が、釧路新聞社に在籍していたのは、1908年(明治41年)1月22日から4月5日までの、わずか2か月ちょっと。
釧路市滞在が、そもそも「76日間」だったというから、本当にちょっとの気紛れで、辺境の地で暮らしてみたというに過ぎない。
それでも、釧路時代に啄木は多くの作品(特に短歌)を残したから、啄木にとって、釧路は、特別な町として記憶されたのだろう(「しらしらと氷かがやき/千鳥なく/釧路の海の冬の月かな」が有名)。
釧路の石川啄木といって、すぐに思い浮かぶのが、小奴(「こやっこ」と読む)だ。
小奴というのは釧路の芸者で、石川とは相思の仲であったともいえよう。私は小奴に逢ったのは石川が釧路を去って約一年後であった。(野口雨情「石川啄木と小奴」)
小奴は、歌集『一握の砂』にも詠まれている釧路の芸者で、啄木と初めて会ったときは、18歳の少女だった。
有名なところでは「死にたくはないかと言へば/これ見よと/咽喉の痍を見せし女かな」にある「女」が、小奴だった(喉の傷痕は自殺ではなく手術によるものだったらしい)。
昭和初期に釧路を訪ねた林芙美子も、小奴と面会している。
啄木の唄った女のひとは昔小奴と云ったが、いまは近江じんさんと云って、角大と云う宿屋を営んでいた。新しくて大きい旅館で、旧市街と新市街の間のようなところにあった。おじんさんは四十五歳だと云っていた。小奴と云う女のひとを現在眼の前にすると、啄木もそんなに老けてはいない年頃だったと思う。生きていたら、たしか五十歳位ででもあろう。(林芙美子「摩周湖紀行」)
林芙美子『摩周湖紀行』は、1935年(昭和10年)6月の発表だから、啄木が亡くなって23年しか経っていない。
早逝した歌人(石川啄木)の愛人として、小奴は、ずいぶん多くの人たちの質問に答えたことだろう(なにしろ、啄木は小樽市内に妻子を残してきていた)。
愛人・小奴を残して、1908年(明治41年)4月5日、啄木は東京へ向かって出発する。
啄木の上京は、文学的理由が大きかったと言われているが、釧路新聞社内での人間関係にも苦労しており、本当の理由ははっきりしない(とにかく、啄木は、人間関係をこじらせることで有名な若者だった)。
夕方、幣舞橋近くの「釧路フィッシャーマンズワーフMOO&EGG」へ行くと、ここにも、釧路ゆかりの文学者に関する展示があった。
主役は、もちろん、原田康子と石川啄木。
釧路市民は、よほど、地元ゆかりの文学に誇りを抱いているらしい(ある意味でうらやましいぞ)。
特別に原田康子や石川啄木のファンでなくとも、文学好きの人にとって、釧路市は訪れる価値のある街だと思う。
なぜなら、文学と地域との関係が、この街では様々な観点から可視化されているからだ。
もしかすると、本当の文学都市というのは、釧路のような街を言うのかもしれない。
最終日の昼食は、「東家 北大通」で蕎麦を食べる。
釧路の人は、「かしわぬき」に「もり」を合わせるという。
メニューには、確かに「かしわぬき(500円)」があって、「おおもり」と一緒に注文して食べた。
昨夜から降り始めた雨は、朝になって大雨警報へと発展し、予想どおり、JR北海道の「特急おおぞら」は、あっさりと運休した。
幸い、午後には雨が止んで、自分が予約していた特急は、予定どおり走ってくれたが、運休になった前の便の人たちで、釧路駅は大混乱となっている(「指定席を予約していない人は、予約した人が来るまで空いた席に座っていてください」とアナウンスしていたみたいだけど、そんな対応あるのか?)。
簡単には安心させてくれないのが、JR北海道という交通インフラなのだ。
石川啄木も林芙美子も、道内の列車事情で、特に困ったりはしなかったらしい。
日本国有鉄道(国鉄)が走っていた時代を、今はただ、うらやましいと思うだけだ。