酒井信『松本清張の昭和』(講談社現代新書)は、昭和の大作家・松本清張、初の本格評伝である。
多くの作品が映画やドラマにもなって大ヒットしたが、小説の様々な場面で、作者自身の人生が描かれていた。
今回は、本書を参考に、松本清張の人生を振り返るとともに、今読むべき松本清張作品をリストアップしてみたい。
これから松本清張の小説を読んでみたいという方におすすめ。
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松本清張とは?
昭和を代表するミステリー作家・松本清張は、明治42年に生まれた。
清張は明治四二年に生まれ、大正時代に幼年期~思春期を過ごし、昭和の約六二年間を、給仕や印刷画工、兵卒や国民作家として生き抜き、平成四年に亡くなった。(酒井信「松本清張の昭和」)
明治生まれの松本清張が作家デビューしたのは、41歳のときだった(『週刊朝日』の懸賞小説「百万人の小説」に応募、「西郷札」が三等に入選)。
44歳のとき、『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。49歳で発表した『点と線』がベストセラーとなり、社会派推理小説ブームを巻き起こす。
51歳で初めて書いたノンフィクション『日本の黒い霧』は、「黒い霧」という流行語にもなった。
長者番付の作家部門で一位となるなど、昭和日本を代表する人気作家である。
松本清張の経歴
多くの人気作で知られている松本清張だが、その経歴は意外と知られていない。
学歴コンプレックス
高等小学校を卒業して、すぐ社会に出て働き出した松本清張は、強い学歴コンプレックスを抱いていた。
「人生には卒業学校欄というものはないのだよ」と、松本清張はエッセイ「学歴の克服」で述べている。(酒井信「松本清張の昭和」)
実際、社会に出た後も「高等小学校卒」という学歴は、付いて回ったらしい。
朝日新聞時代
作家デビュー当時、松本清張は朝日新聞西部本社で働いていたが、新聞記者や事務職ではなく「印刷画工」という職人だった。
私は朝日の社員バッジを胸につけたとき、泪が出るほどうれしかった。/ところが、朝日に入ると学歴に依る差別待遇をはっきりと見せつけられた。(松本清張「学歴の克服」/酒井信「松本清張の昭和」より)
朝日新聞社でも松本清張は、学歴によるひどい差別待遇を受けた。
作家業に専念するために朝日新聞社を退職したとき、松本清張は、朝日新聞の社員バッジを池に放り投げたという。
芥川賞受賞
芥川賞受賞作『或る「小倉日記」伝』は、当初、直木賞の候補作だったが、永井龍男の推薦により芥川賞の選考へと回された結果、見事に芥川賞を受賞した。
受賞式のほうは現在のように派手なものではなく、同社の旧館の地下室で、文壇人も新聞記者もひとりもこない侘しいものだった。(松本清張『松本清張全集35』あとがき/酒井信「松本清張の昭和」より)
芥川賞が世間の注目を集めるようになるのは、その直後、石原慎太郎が『太陽の季節』で受賞する昭和31年以降のことである。
国民作家の誕生
昭和31年、松本清張の発表した『点と線』は、高度経済成長期の日本に推理小説ブームを巻き起こした。
さらに、昭和33年には、江戸川乱歩編集長の推理小説雑誌『宝石』で「零の焦点」が連載開始。
『宝石』の連載初回、一九五八年三月号の目次では、松本清張の「零の焦点」は、横溝正史の代表作「悪魔の手毬唄」を二番手に従えて、堂々のトップ掲載である。(酒井信「松本清張の昭和」)
学歴コンプレックスを抱えた「高等小学校卒の職人」は、今や日本を代表する国民作家だった。
松本清張と昭和時代
本書『松本清張の昭和』を読むと、松本清張が「昭和」という時代の中から、いかに這い上がってきたかということが理解できる。
ベストセラー作品の中にあるのは、作者・松本清張が見てきた(戦前・戦後という)日本社会の点描である。
そして、そんな松本清張の成功を支えたものも、やはり、戦後の高度経済成長期という時代だった。
『松本清張の昭和』を読んだ後では、松本清張作品に対する読み方も、きっと変わってしまうことだろう。
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松本清張 おすすめ代表作(2026年最新)
今回は『松本清張の昭和』を参考としながら、今読むべき松本清張作品をリストアップしてみたい。
いずれも、松本清張の人生を反映した素晴らしい名作ばかりである。
① 砂の器
ハンセン病の父子への差別と、奥出雲と都市部の格差が描かれた松本清張の代表作で、主要な舞台である奥出雲の亀嵩は、父の出身地の近くだった。
新しい時代の文化人(当時の高学歴作家)に対する嫉妬も描かれている(これも学歴コンプレックスだった)。
代表作の一つ『砂の器』には、石原慎太郎や大江健三郎、江藤淳や寺山修司、開高健などが名を連ねた「若い日本の会」を連想させる「ヌーボー・グループ」への嫉妬が記されている。(酒井信「松本清張の昭和」)
カッパ・ノベルスの松本清張作品で最大の発行部数を記録しているのが『砂の器』である(135万部)。
また、新潮文庫でも『砂の器』は、上下巻合わせて460万部を超える発行部数で、松本清張作品の中では最も売れた作品だった。
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② 天城越え
川端康成『伊豆の踊子』を下地にした短篇小説の代表作。
主人公である16歳の鍛冶屋の息子には、下働きの給仕として青春時代を過ごした作者自身が投影されている。
松本清張は、実体験をもとに、学歴や職業による差別と向き合い続けた。
『黒い画集』(新潮文庫)に収録されている。
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③ 点と線
松本清張の出世作となった時刻表トリックの鉄道ミステリー。機械工具商の汚職事件を描いた社会派ミステリーでもある。
初出は、小説雑誌ではなく、旅行雑誌の『旅』だった。
ちょうど松本清張がブレイクした時期だったこともあり、連載の原稿は遅れ、社内には「清張待ち」なる言葉も生まれた。
松本清張が雲隠れしたときは、日本交通公社の総力を結集して作家の居場所を突きとめ、帰りの飛行機の中で原稿を書かせたという。
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④ 黒革の手帖
ベテラン銀行員から銀座のママへと転身した女性が主人公の悪女小説。
松本清張は酒の飲めない下戸だったが、女性にはモテたらしく、彼自身が悪女とのトラブルも経験している。
三つめは『黒革の手帖』など、結婚に関心の薄い女性が水商売をはじめ、性的な欲望ではなく、金銭的な欲望を原動力として、男社会と闘う「素人・玄人悪女もの」である。(酒井信「松本清張の昭和」)
それまで、男の脇役でしかなかった女性が、自らの成功のために犯罪の主役となる。
『黒革の手帖』は、女性の新しい時代の到来をも意味していた。
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⑤ ゼロの焦点
貧しい家庭で生まれ育った松本清張は、女性に対しても公平な視点で接した。
一つ目は『ゼロの焦点』など、「お嬢さん」が「謎めいた過去」を探求するうちに、戦後史の闇に足を踏み入れていく「お嬢さん探偵もの」である。たとえば『ゼロの焦点』は、男性経験のない「お嬢さん」の鵜原禎子が、三六歳の夫が能登半島で失踪した謎を解明しながら、東京・立川で米兵相手の売春を行っていた女性たちの「戦後史」に迫っていく内容である。(酒井信「松本清張の昭和」)
主人公(鵜原禎子)は、戦後復興を果たした東京と日本海・能登との格差に直面し、立川で働いていた女性たちの感情を受けとめることで成長していく。
それは「「お嬢さん探偵」の「成熟と喪失」を描いた作品」でもあったのだ。
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⑥ ガラスの城
社員旅行の夜に行方不明となったエリート課長は、なぜ殺されたのか?
タイトルの「ガラスの城」とは、高度経済成長期に次々と建ち始めた「オフィスビル」のことで、犯罪は「ガラスの城」という組織の中から生まれてきたものだった。
雑誌『若い女性』に連載された「お嬢さん探偵」ものの推理小説として、近年もドラマ化されるほど人気を集めている。
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⑦ 黒い画集
『週刊朝日』に連載された短編推理小説シリーズで、松本清張の代表的な短篇小説集となっている。
人間の裏の顔を描いた「証言」は特に人気で、「②天城越え」も、本作品集の収録作品だった。
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⑧ 或る「小倉日記」伝
芥川賞受賞作。松本清張の純文学作品として、高い人気を誇る。
選考委員会では、特に坂口安吾の評価が高かった。
「小倉日記の追跡だからこのように静寂で感傷的だけれども、この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり、その時はまたこれと趣きが変りながらも同じように達意巧者に行き届いた仕上げのできる作者であると思った」(坂口安吾「選後評」/酒井信「松本清張の昭和」)
まだ、推理小説を書いていない松本清張に、坂口安吾は「殺人犯人をも追跡しうる自在な力」があると、あたかも予言のような評価を与えているところが興味深い。
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なぜ松本清張は今の時代も受け入れられるのか
松本清張は、叩き上げの作家である。貧しい少年時代から這い上がるようにベストセラー作家の座を手にした。
彼の小説にリアリティがあるのは、そこに「作家自身の人生」が投影されているからだ。
彼は、学歴や貧富による差別を容認する格差社会を、小説の中で猛然と批判した。
常に弱い者の味方だった彼は「小説」という武器を使って、社会に激しく抗議し続けていたのだ。
時代は変わったけれど、人々の格差はより見えない形で広がり続けている。
可視化できない格差社会。
それが、現代でも松本清張が受け容れられている理由なのではないだろうか。
松本清張の作品に現代性があるのは、それが「社会派ミステリー小説」だったからだ。
彼は「推理小説」という形を借りながら、常に「社会」を描き続けていた。
それは、彼とその家族が辛い暮らしを余儀なくされた「戦前・戦後の社会」でもある。
もしかすると、松本清張の小説によって「昭和」は、今も我々の中に生き続けているのかもしれない。
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