「どんな髭剃りにも哲学がある」という言葉の出典元は何か。
この言葉を世に広めた村上春樹は、少なくとも3つの場面で、この言葉を引用している。
1973年のピンボール
あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月波みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね。どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。(村上春樹「1973年のピンボール」)
村上春樹の作品の中に、初めて「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉が登場したのは、1980年の「群像」に掲載された長編小説『1973年のピンボール』。
物語の終盤で、行きつけのバーのマスター「ジェイ」が、街を去って行こうとしている「僕」に語りかける場面で、ジェイは「どこかで読んだよ」と言いながら、「どんな髭剃りにも哲学はあるってね」という言葉を引用している。
この作品の中では、それが誰の言葉なのかということは、明らかにされていない。
哲学としてのオン・ザ・ロック
その頃に覚えた例文は今でもいくつか覚えている。たとえばサマセット・モームの「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉もそのひとつである。(略)要するにどんな些細なことでも毎日つづけていれば、そこにおのずから哲学は生まれるという趣旨の文章である。女の人向けに言うと、「どんな口紅にも哲学はある」ということになる。(「哲学としてのオン・ザ・ロック」)
次に、この言葉が登場するのは、女性ファッション誌「CLASSY」に掲載されたエッセイ「哲学としてのオン・ザ・ロック」で、エッセイ集『ランゲルハンス島の午後』として書籍化もされている。
これは、学生時代に勉強嫌いだった村上さんが、「英文和訳」の参考書を読むのだけは例外的に好きだったという話で、どうしてそんなに「英文和訳」の参考書が好きかというと、「そこに例文がいっぱい載っているから」と、村上さんは言っている。
例文をひとつひとつ読んだり覚えたりしているだけでけっこう飽きないし、そんなことをつづけているうちにいつの間にか、ごく自然に英語の本が読めるようになってしまった(本当かどうかはともかくとして)。
その頃に覚えた例文のひとつが、サマセット・モームの「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉だった。
つまり、村上さんは、自分でモームの作品を読んだのではなく、「英文和訳」の参考書に載っていたものを読んで、この言葉を覚えたということらしい。
この「英文和訳」の参考書については詳細不明で、何しろ1960年代の話になるので、今からは特定することは、かなり大変だという気がする(当時、どれだけの英文和訳の参考書が出版されていたか分からないけれど)。
走ることについて語るときに僕の語ること
サマセット・モームは「どんな髭剃りにも哲学がある」と書いている。どんなつまらないことでも、日々続けていれば、そこには何かしらの観照のようなものが生まれるということなのだろう。僕もモーム氏の説に心から賛同したい。(村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」)
もうひとつ、この言葉が登場するのが、エッセイ集『走ることについて語るときに僕の語ること』で、出典は示されていないものの、「どんな髭剃りにも哲学がある」という言葉は、「サマセット・モームが書いている」ものとして紹介されている。
村上さんが、もっともらしいけれど、実は事実と異なるエピソード(つまり嘘)を、作品の中に書き込むことは有名な話で、村上さんの書いたものを、そのまま信用してはいけないのだけれど、ある程度、真面目なエッセイの中でも、この言葉を引用しているところを見ると、これは村上さんの適当な創作ではないという気がしてくる。
高校生の頃に読んだ英文和訳の参考書に載っていた例文だけが出典だとも思われないので、やはり、村上さんは、モームの書いた作品の中で、この言葉を見つけたのだろうか。
残念ながら、僕はモームの著作をすべて読んでいるわけではないので、「どんな髭剃りにも哲学がある」という言葉が、本当にモームの言葉なのかどうかということを判断することはできない。
まずは、モームの作品をひとつ残らず読んでみる必要がありそうだ。