福田清人「名作モデル物語」読了。
本作「名作モデル物語」は、1954年(昭和29年)10月に朝日新聞社から刊行された文学案内書である。
この年、著者は50歳だった。
必ずしも幸福ではなかった名作のモデルたち
現代文学において、特定のモデルが話題になることはほとんどない。
想像力が問われる現代文学において、モデルの存在はさほど大きな意味を持たないからだ。
一方、実際の事件に取材することの多かった近代文学では、実在のモデルに注目の集まることが多かった。
例えば、田山花袋の代表作『蒲団』は、弟子の若い女性に感じた小説家の性欲を赤裸々に綴った作品だが、作品中の<芳子>は、<岡田美知代>という田山花袋の弟子がモデルだった。
終戦後の混乱がまだつづいている、終戦の日から一年たったか、たたずのある日、その頃鎌倉長谷戸二二六にすんでいた吉屋信子さんは、ひどく変った訪問客に接しました。その客と云うのは玄関で応対した吉屋さんの同居の人に、「私は『蒲団』のモデルの女でございます」と、いきなり名のった老女でした。(福田清人「名作モデル物語」)
<芳子>と恋愛をする<田中秀夫>は<永代静雄>という男性がモデルで、小説では、実際よりも軽薄な人間として描かれていたため、現実生活では迷惑をこうむったという。
<田中>は<芳子>と結婚したものの、後に離婚し、1944年(昭和19年)に亡くなっていて、「美知代さんは、新聞社や放送局の人が訪れても、今は口を閉して、何も語らないそうです」という一文は、作品がモデルの人生に与える影響を暗示しているような気がする。
迷惑をこうむったということでは、農民文学の代表作として名高い長塚節の『土』で、貧しい農家の娘<おつぎ>として描かれている<長塚イマ>の話も興味深い。
長塚イマは、『土』に貧しく書かれていることに立腹していて、研究家や学生が訪ねてくるのを喜ばなかった。
「タカシさんは、おれたちが貧乏だ貧乏だと悪口ばかり書いて、自分は有名となり、うんと銭もうけたろうが、おれたちは貧乏だと軽蔑されたばかりで、ええこたあ、すこしも書いてくれておらん、まったくひでえ人だ」と、ひどく興奮して、私をまでにらみつけるのでした。(福田清人「名作モデル物語」)
真実を描き出すことが文学の使命だった時代、社会の矛盾を指摘することによって、傷つく人たちもまた少なくなかったのだろう。
本書『名作モデル物語』では、計14人の作家の作品について、モデルの人生を念頭に置いた作品考察が行われている。
掲載されている作品は、樋口一葉「たけくらべ」、徳富蘆花「不如帰」、尾崎紅葉「金色夜叉」、夏目漱石「三四郎」、島崎藤村「新生」、徳田秋声「黴」、石川啄木「一握の砂」、有島武郎「或る女」、谷崎潤一郎「痴人の愛」など。
『金色夜叉』で<宮さん>のモデルだった<大橋須磨子>、『三四郎』の<美禰子>のモデル<平塚雷鳥>、『一握の砂』の<小奴>と<橘智恵子>、『或る女』の<佐々城信子>などは、写真も紹介されている。
小説に登場している人物を特定して公に曝す
本書『名作モデル物語』は、実在のモデルに重点を置いた文学案内だが、実際に著者が取材できた作品は、思ったほど多くない。
先行研究や伝聞をソースにしたエピソードも多く、文学のモデルに対する取材の難しさというものを感じさせる。
近代文学の名作というのは一般に、何かしらの事件に取材した「問題作」である場合が多く、作中のモデルにとっては、事件が公になることで迷惑になることも珍しくなかったからだ。
小説の中に仮名で登場している人物を特定して公に曝すという行為は、現代社会ではおそらく許されないだろう。
それだけに、文学作品に登場することが、本人の良い思い出となっているような場合は、ある意味で珍しいのかもしれない。
佐藤春夫の『田園の憂鬱』に登場する女学生のモデル<金子美代>は、著者の取材に快く丁寧に対応している。
彼女の場合、青春の日の自分が作中で美しく描かれているので、『田園の憂鬱』は、むしろいつまでも彼女自身の誇りでもあったことだろう。
「あなたに佐藤さんは好意を持っていたのではありませんか」私は軽い調子で言ってみたりしました。「この村に、佐藤先生が、学校にでも講演にきて下さるといいのだけど──それでなくても、いつか昔のあとをおしのびに、いらっしゃるとうれしいのですが──」(福田清人「名作モデル物語」)
後に、金子美代は私財を投じて「佐藤春夫 田園の憂鬱由縁の地」なる文学碑を建立している。
伊藤整の『若い詩人の肖像』にも登場している山田順子は、小樽市内での結婚生活の後、上京して徳田秋声の愛人となり、やがて、秋声の作品にも登場するようになった。
秋声は、まことに雑草のような市井庶民の女性を描きました。しかし、このように深い愛で描いたでしょうか。「元の枝へ」「仮装人物」のモデルとなった山田順子は最近「女弟子」で、愛慾の一面、その作品のためには、女弟子を冷酷な実験台にのせたものとして、この老作家に師とよびつつも女性の立場からかなしい抗議的な筆をとっています。(福田清人「名作モデル物語」)
恋愛をした男女がともに作家だった場合、恋愛事件は男女双方の視点から描かれることもあった。
もとより、実際の事件と小説とはまったくの別物ではあるけれど、文学作品に実在のモデルがあるということは、近代文学の名作に一種の浪漫を添えている要素だと思う。
幸田露伴の『金色夜叉』で、貫一が宮さんを足蹴にする熱海の名場面は、巌谷小波を手玉に取った高級料亭の女中<大橋須磨子>を、小波の友人・尾崎紅葉が料亭の廊下で蹴飛ばした事件が元になっているとか。
こういう話を読むと、近代文学というのは深いなあとしみじみ思ってしまう。
書名:名作モデル物語
著者:福田清人
発行:1954/10/01
出版社:朝日新聞社(朝日文化手帖シリーズ)