小沼丹は、東京都武蔵野市の住人だった。
小沼丹の自宅があったところまでは、三鷹駅からバスで移動する方法もあるが、西武鉄道の西武柳沢駅からは徒歩圏内にある。
天気の良い週末、小沼丹の暮らした町を文学散歩してみた。
関前橋を渡って千川上水を越える
小沼丹の自宅に近い「西武柳沢駅」までは、福原麟太郎の自宅があった「野方駅」から、西武新宿線であっという間である。
実際に、作家の暮らした町を歩いていると、本を読むだけでは見えなかったものが見えてくるから不思議だ。
何となく懐かしい雰囲気の西武柳沢駅を出て歩き始めると、良さげな蕎麦屋があった。
ちょうど昼時だったので、いきなり一服のランチタイム。
東京都内の老舗蕎麦屋と違って、ゆったりとした空気が流れている。
休日の文学散歩は、急ぐ旅ではないから、慌てる必要は何もない。
冷たいビールを飲んで、せいろ蕎麦を平らげてから、ゆっくりと出発。
駅前の通りをまっすぐに行くと青梅街道に当たるので、ここを左折して、しばらくは街道沿いに歩いていく。
青梅街道に沿って歩いているときに、石神井川を越えた。
交通量の多い都道7号線(伏見通り)で右折して直進すると、関前橋交差点に出る。
橋の下を流れているのは、小沼丹の随筆にも登場する千川上水だろう。
この小川にはちゃんと、千川上水、なる由緒ある名前が附いてゐて、少し上流の境橋と云う所で玉川上水から岐れて出てゐる。(小沼丹「水」)
どうやら、この辺りはもう、存命時代の小沼さんの散歩コースだったようだ。
庚申塔から八幡町いこいの広場まで
交差点の角には、古い庚申塔があって、この辺りが武蔵野であった時代を感じさせる。
旧小沼邸を目指すには、ここから住宅街へと入っていくのだが、大師通りに入るべきところ、杉並あきる野線に入ってしまったので、少しだけ時間をロスしてしまった。
住所表示を見ると、小沼丹の自宅があった場所は、「八幡町いこいの広場」に隣接しているらしい。
小沼は(略)「僕も建てる決心をした」と言って、この大工に英国風の屋根の家を建てさせた。赤い円筒瓦の屋根で、目立つ屋根であった。(吉岡達夫「長いつきあい」)
「八幡町いこいの広場」はすぐに見つかったが、この辺りに、小沼丹という作家が暮らしていたことを示す痕跡は、どこにもないように思われる。
人気のない「いこいの広場」でしばし休憩してから、すぐ近くにあったという吉岡達夫の自宅跡へと向かう。
五十年ほど前から、私は小沼丹君の紹介で、武蔵野市の北の端に住んでいる。小沼君の家はすぐ目の前である。「オーイ」と呼べば聞えるほどの近さである。(吉岡達夫「長いつきあい」)
学生時代の友人が、大人になってからも近所付き合いをするというのは、珍しいのではないだろうか。
二人が、ここに住居を構えるに至った経緯については、吉岡達夫の「長いつきあい」に綴られている(1997年3月『早稲田文学』)。
その頃、小沼丹は武蔵野の盈進学園に仮住まいをしていて、吉岡達夫は野方の父の家に住んでいたが、小沼丹から「新しく都営の一軒家住宅が建つので、申し込まないか」と言ってきた。
三万円を出すと、特別な計らいで入居できるというので、申し込みをして家を新築した。
新築の家は住心地がよかったが、それから二十年もたつと、古びてきて、都は居住者に払い下げることになった。六十万近い値だったと思う。私は払下げを受けると、新しい家に建てかえた。(吉岡達夫「長いつきあい」)
このとき、小沼丹も払い下げを受けて、家を建て替えることにしたらしい。
それが「英国風の赤い屋根」が目立つ家だった。
吉岡達夫の自宅のあったあたりにも、もちろん、一切の表示はない。
歴史の上では、名もなき住宅街として埋もれていくのだろう。
帰りは、伏見通りから関東バスに乗って、JR三鷹駅まで移動した。
せっかくの機会ではあるけれど、太宰治の文学巡りは、別の機会にしようと思った。
今日は、小沼丹と吉岡達夫の暮らした町を歩きたかっただけなのだから。