村上春樹「眠り」読了。
本作「眠り」は、1990年(平成2年)1月に文藝春秋から刊行された作品集『TVピープル』に収録された短篇小説である。
初出は、1989年(平成元年)11月『文学界』で、この年、著者は40歳だった。
2011年(平成23年)11月『ねむり』として改題・改稿された絵本が、新潮社から刊行されている。
オルターエゴが生きる深層心理の世界
本作『眠り』は、重度の睡眠障害(不眠症)となったことで、本来のアイデンティティを取り戻した主婦の物語である(と、多くの人が考えるはずだ。もちろん、僕もそう考えた)。
私は鏡の前に座って、三十分ばかりじっと自分の顔を見ていた。いろんな角度から、客観的に眺めてみた。思いちがいではない。私は本当に綺麗になっているのだ。(村上春樹「眠り」)
ところが、物語の最後に「謎の男たち」が登場することで、この物語のテーマが分からなくなる(モヤモヤ感が残る)。
私はその時人の気配でふと我に返った。そこに人がいるのだ。私は目をあけてまわりを見る。誰かが車の外にいる。そしてドアを開けようとしている。でももちろんドアはロックされていた。黒い影が車の両側に見える。右のドアと左のドアに。(村上春樹「眠り」)
車を揺さぶり続ける男たち(黒い影)は、いったい何を意味していたのだろうか?
謎の男たちが現れて、自動車を揺さぶり始めたとき(つまり、小説を読み終えたとき)、僕は、この作品は、女性の深層心理を戯画化した物語ではないかと思った。
つまり、主人公の女性は、本当の彼女ではなく、彼女の心の奥底に潜む「もう一人の自分自身」だったのではないか?ということだ(オルターエゴ)。
僕が、そのように考えた理由のひとつに、著者のコメントがある。
『ダンス・ダンス・ダンス』を書いたあと、僕は一年ばかり本当に精神的に落ち込んでいて、文章らしい文章はほとんど何も書けなかった。そんなに長いあいだ何も書けないというのは、僕にしてはかなり珍しいことだった。(村上春樹「自作を語る」『村上春樹全作品1979-1989』収録)
このコメントは、『アンナ・カレーニナ』を書き終えた後の、トルストイのエピソード(手紙)を思い起こさせる。
この小説(『アンナ・カレーニナ』)を完結して新しい仕事に着手しようと思っていました。が、しかも私は、そんな仕事をやるどころか、何にもやってこなかったのです。私は内的に眠っていて、目醒めることができません。不健康で、絶えず憂愁にかくれています。(武者小路実篤『トルストイ』)
もしかすると、本作『眠り』も、「内的に眠っていて、目覚めることができない」女性を主人公とした物語だったのではないか。
逆転的な発想をすると、「目覚めることができない女性」の、潜在意識に潜むもう一人の自分は「眠ることができない女性」として置き換えることができる。
つまり、本作『眠り』は、「内的に眠っていて、目覚めることができない自分」を、オルターエゴの視点から描いた物語だった、ということだ。
そもそも、この小説のタイトルは「眠り」である(「覚醒」ではない)。
「眠れないこと」ではなく、「眠り続けている」ことにこそ、この物語の本当の意味が隠されていたのではないだろうか。
最後に登場する謎の男たち(黒い影)は、本来の自分自身(自我)である。
「内的に眠っていて、目覚めることができない自分」を、主人公は、必死に覚醒させようとあがいているのだ。
そこに投影されているのは、もちろん、『ダンス・ダンス・ダンス』以降、小説を書くことのできなくなった作者の焦りであり、不安だっただろう。
何かが間違っている、と私は思う。落ち着いて考えれば上手くいくのだ。考えるんだ。落ち着いて・ゆっくりと・考えるんだ。何かが間違っている。(村上春樹「眠り」)
間違っているのは、彼女が「本来の自我ではない」ということである。
彼女(主人公)は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に登場する「影」と同じく、彼女自身の深層心理の世界で生きている「もう一人の自分」なのだ。
これは夢じゃない、と私は思った。私は夢から覚めたのだ。それも漠然と覚めたのではなく、はじかれるように覚めたのだ。だからこれは夢ではない。これは現実なのだ。(村上春樹「眠り」)
そこは、一人の女性の「潜在意識」と呼ばれる現実世界である(もちろん「夢」ではない)。
ただ、その世界は、彼女自身の心の奥底深いところにある世界なので、誰も知ることはできない世界だった(もちろん、本来の彼女自身でさえ)。
でも駄目だ。覚醒がいつも私のそばにいる。私はその冷やかな影を感じ続ける。それは私自身の影だ。(村上春樹「眠り」)
主人公が「感じ続けている」ものは、本来の彼女自身である。
「それは私自身の影なのだ」ではなく、そもそも、主人公が「彼女自身の影」なのだ。
私は思いきり体を動かすことで、体の中から何かを追い出してしまいたいように感じたのだ。追い出す。でもいったい何を追い出すのだろう? 私はそれについて少し考えてみた。何を追い出すのだ?(村上春樹「眠り」)
彼女が「追い出してしまいたい」と考えているのは、もう一人の彼女自身(つまり、本来の自分自身)である。
潜在意識下にあるオルターエゴが、本来の彼女を「追い出してしまいたい」と考えている。
それは、もちろん、本来の彼女自身が、一人の主婦として甘んじている現状の生活に満足できていないからだ(本来の自分自身に強い不満を抱えて鬱屈している)。
なんて醜い顔をしてこの人は眠るんだろう、と私は思った。いくらなんでも、これはひどすぎる。昔はこんなんじゃなかったはずだ、と私は思った。(村上春樹「眠り」)
配偶者に対する主人公の不満は、本来の彼女自身が「無意識に抱えている不満」を表現したものにすぎない。
不倫相手に恋をしたアンナ・カレーニナが、夫の醜悪さに目覚めたように、潜在意識の中の彼女(主人公)も、醜悪な夫に目覚めつつあるのだ(最近は「蛙化現象」と呼ばれるらしいが)。
『眠り』は「心の闇」を可視化した作品だった
小説の主人公として「彼女」が生まれた背景には、もちろん、トルストイ『アンナ・カレーニナ』が大きく影響しているのだろう。
『アンナ・カレーニナ』の主人公(アンナ・カレーニナ)も、一人の専業主婦だった。
あまり裕福とは言えない貴族の暮らしは、借金を抱えた若い歯医者の暮らしに置き換えられている。
老人はいつまでも私の足に水を注ぎつづけていた。不思議なことに、どれだけ水を注いでも、その水差しの水はなくならなかった。(略)いったいあの黒い服を着た老人は何だったんだろうと私は思った。(村上春樹「眠り」)
「黒い服を着た謎の老人」は、もちろん、『アンナ・カレーニナ』へのオマージュだが、老人は、本来の彼女自身の化身を意味している。
それは「内的に眠っている」自分を必死で励ます、彼女自身の姿だったのだ(車を揺さぶり続ける男たちと同じように)。
夫は私の車のことを「君のロバ」と呼ぶ。でもなんと言われようと、それは私自身の車なのだ。(村上春樹「眠り」)
「君のロバ」と呼ばれる自動車は、彼女の自己核を象徴した存在として読むことができる。
私はあきらめてシートにもたれ、両手で顔を覆う。そして泣く。私には泣くことしかできない。あとからあとから涙がこぼれてくる。私はひとりで、この小さな箱に閉じ込められたままどこにも行けないのだ。今は夜のいちばん深い時刻で、そして男たちは私の車を揺さぶりつづけているのだ。彼らは私の車を倒そうとしているのだ。(村上春樹「眠り」)
そこ(自動車の中)は、彼女の自己核の世界で、主人公は彼女自身そのものだから、もちろん、彼女は「箱に閉じ込められたままどこにも行けない」。
そして、本来の彼女自身は、今まさに「内的な眠り」から覚醒しようとしている。
黒い影の男たちが彼女の車を倒したとき、「本来の彼女」は復活することができるからだ。
作者・村上春樹に置き換えると、それが、つまり『眠り』という小説を完成させたことを意味するのだろう。
しかし、人は、いつでも(誰でも)「本来の自分自身に戻れる」というわけではないはずだ(覚醒できるわけではない)。
心の底に大きな不満を抱えた人は、「いつかどこかで爆発してしまうかもしれない」という危険性を抱えながら生きていることになるからだ(つまり、眠れない主人公が、本来の自分自身に勝ってしまう)。
どうしてトルストイという人は登場人物をみんなこんなに上手く自分の手のうちにくるんでしまうのだろうと考えていた。トルストイはとても素晴らしい正確な描写をする。でもだからこそ、そこではある種の救いが損なわれているのだ。そしてその救いというのはつまり──(村上春樹「眠り」)
描写が素晴らしく正確だからこそ「ある種の救いが損なわれている」ということは、つまり、我々の人生では、常に「ある種の救いが損なわれている」ということである。
本作『眠り』の主人公は、もしかしたら、彼女自身こそが「損なわれた救い」だったのかもしれない。
おそらく、彼女の乗った自動車は黒い影の男たちに倒されて、彼女の眠れない日々は終わりを告げるだろう(つまり、本来の彼女が、彼女自身を取り戻す)。
しかし、本来の彼女自身の生活は、心の奥深いところに大きな不満を抱えた「損なわれた生活」である(人は、それを「心の闇」という)。
村上春樹は、「心の闇」を表現することが、本当に上手な作家だったのだ。
作品名:眠り
著者:村上春樹
書名:TVピープル
発行:1993/05/08
出版社:文春文庫