壺井栄「二十四の瞳」読了。
本作「二十四の瞳」は、1952年(昭和27年)2月から11月まで『ニュー・エイジ』に連載された長篇小説である。
この年、著者は53歳だった。
単行本は、1952年(昭和27年)12月に光文社から刊行されている。
分教場は生まれながらにして不平等な日本社会の縮図
新潮文庫の公式サイトに「こんな先生、こんな生徒だったらなぁ。」と書いてある。
本当だろうか。
本作『二十四の瞳』は、寒村のへき地・小規模校へ入学してきた、不幸な子どもたちの物語である。
そこは、本校から遠く離れた分教場で、先生は二人しかいない。
一人は定年近い年寄りの男性教諭で、もう一人は新人の女性教諭である。
ただでさえ貧しい家庭ばかりの岬の村に、昭和初期の不景気が押し寄せていて、子どもたちの暮らしはお世辞にも豊かとは言えない。
おなじ年に生まれ、おなじ土地にそだち、おなじ学校に入学したおない年の子どもが、こんなせまい輪の中でさえ、もうその境遇は格段の差があるのだ。母に死なれたということで、はかりしれぬ境遇の中にほうり出された松江のゆくすえはどうなるのであろうか。(壺井栄「二十四の瞳」)
村の分教場は、社会の小さな縮図だろう。
生まれながらにして不平等で、生まれ育った家庭環境によって、まるきり人生が異なってしまうという、日本社会の縮図。
悲しいのは、幼い子どもたちが、惨めな境遇を粛々と受け入れて生きていこうとする、その真摯な生き様だ。
わたしは女に生まれてざんねんです。わたしが男の子でないので、おとうさんはいつもくやみます。わたしが男の子でないので、漁についていけませんから、おかあさんがかわりにいきます。だからおかあさんは、わたしのかわりに冬の寒い日も、夏の暑い日も沖にはたらきにいきます。わたしは大きくなったらおかあさんに孝行つくしたいと思っています。(壺井栄「二十四の瞳」)
そんな綴り方を書いた少女は、早くに母親を亡くし、母親代わりとなって家事を担わなければならない。
学校へ通い、勉強するということが、贅沢な願いだった時代。
子どもたちの人生を左右するのは、まさしく生まれ育った家庭環境だった。
「こんな先生、こんな生徒だったらなぁ」なんて思わない
さらに、太平洋戦争が始まったとき、寒村の子どもたちの運命は、貧しい家庭環境と戦争によって、さらなる試練を受けなければならない。
兵隊墓は丘のてっぺんにあった。日清・日露・日華と、じゅんをおって古びた石碑につづいて、あたらしいのはほとんど白木のままくちたり、たおれているのもあった。その中で仁太や竹一や正のはまだ新しくならんでいた。(壺井栄「二十四の瞳」)
「漁師になりたい」というささやかな望みさえ叶うことなく、教え子たちは次々と戦地に散っていく。
没落した家を救うために売られていく少女に、無意味な戦死で人生を終える少年たち。
感動の名作?
この物語のどこに、夢や希望があるというのだろう。
確かなことは、十二人の子どもたちの夢を奪い、希望を打ち砕いたのは、紛れもなく大人たちであり、日本社会だったということだ。
本作『二十四の瞳』は、悔しいくらいの怒りと怨念に満ちた反戦小説である。
ほのぼのとした文章は、作者の怒りの裏返しだろう。
そこで描かれている子どもたちの運命は、これ以上ないくらいに悲惨で恐ろしい。
少なくとも自分だったら「こんな先生、こんな生徒だったらなぁ。」なんて思わない。
考えるのは、「こんな国には生まれたくない」「こんな時代には生まれたくない」ということだけだ。
物語の最後で、戦争で盲目になった磯吉が、懐かしい小学校時代の写真を手にする場面がある。
「ちっとは見えるかいや、ソンキ」磯吉はわらいだし、「目玉がないんじゃで、キッチン。それでもな、この写真は見えるんじゃ。な、ほら、まん中のこれが先生じゃろ。そのまえにうらと竹一と仁太がならんどる。先生の右のこれがマアちゃんで、こっちが富士子じゃ。マッちゃんが左の小指を一本にぎりのこして、手を組んどる。それから──」(壺井栄「二十四の瞳」)
生き残った教え子たちは、それでも最後まで前向きだった。
もしも、この物語に慰めがあるとしたら、そんな惨めな境遇にあって、それでも前向きに生きていこうとする、子どもたちの生命力にあるのかもしれない。
戦後の日本を支えたのは、そんな彼らの生命力だったということを、僕たちは忘れてはならないだろう。
書名:二十四の瞳
著者:壺井栄
発行:2005/04/25
出版社:新潮文庫