文学鑑賞

サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」翻訳読み比べ~柴田元幸から野崎孝まで

サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」翻訳読み比べ~柴田元幸から野崎孝まで

サリンジャー唯一の短編小説集『ナイン・ストーリーズ』は、日本国内でも非常に人気のある作品集らしく、これまでに多くの翻訳版が出版されている。

『ナイン・ストーリーズ』の翻訳の権利がどのようになっているのか分からないけれど、代表作『ライ麦畑でつかまえて』に比べると、ずっと多くの翻訳版が刊行されているようだ。

短編小説を読むとき、大抵の場合、僕は一つの作品を三回繰り返して読む。

一回では把握できなかったディテールも、三回読むとおおよそ把握できるし、著者が何を言いたかったのかといったテーマも、繰り返し読むことで理解できるような気がするからだ(時間があればもっと何度も読みたいし、難解な作品は納得できるまで読む)。

今回、『ナイン・ストーリーズ』に収録された短編小説の感想を書くにあたって、僕は、それぞれの作品を三回以上読んだ。

サリンジャーの作品は理解が難しいということもあるけれど、実は『ナイン・ストーリーズ』には数種類の翻訳版があって、今回は、それらの翻訳を一つ一つ比較しながら読んでみたことが、その理由である。

異なる翻訳で読むと、小説に対する感想が変わるということを、今回、僕は自分の身をもって体験することができた。

良い翻訳とか正しい翻訳とかいう問題は別にして、翻訳が異なると、物語の印象はまったく違ったものになる。

訳者を変えるたびに、あまりに異なる解釈が生じるような気がしたので、途中からは英語の原作を参考にしながら翻訳版を読むことになった。

当たり前だけど、英語の原文で読むと、小説の印象はさらに異なったものになる。

おかげで、これまで考えていたことと随分違う解釈が自分の中で生まれて、非常に楽しい体験になった。

今回は、僕の手元にある『ナイン・ストーリーズ』の翻訳版を並べて、それぞれの特徴をメモしておきたい。

NINE STORIES / J.D.SALINGER

まずは、原書『NINE STORIES』は、Kodansha English library のもの。

文庫サイズだけど、字が大きくて読みやすかった。

収録作品名は次のとおり。

・A Perfect Day for Bananafish
・Uncle Wiggily in Connecticut
・Just Before the War with the Eskimos
・The Laughing Man
・Down at the Dinghy
・For Esme with Love and Squalor
・Pretty Mouth and Green My Eyes
・De Daumier-Smith’s Blue Period
・Teddy

以下、日本語訳を順に紹介していきたい。

ナイン・ストーリーズ / 柴田元幸・訳

近年の翻訳と言えば、村上春樹と仲良しな柴田元幸・訳の『ナイン・ストーリーズ』。

柴田さんの翻訳を読み慣れている人には抵抗感がないだろうし、近年の翻訳なので表現的な違和感も少ない。

収録作品名は、次のとおり。

・バナナフィッシュ日和
・コネチカットのアンクル・ウィギリー
・エスキモーとの戦争前夜
・笑い男
・ディンギーで
・エズメに──愛と悲惨をこめて
・可憐なる口もと 緑なる君が瞳
・ド・ドーミエ=スミスの青の時代
・テディ

注目のバナナフィッシュは「バナナフィッシュ日和」説を採用。

「アンクル・ウィギリー」も、あえて日本語訳を避けているのは、最近の翻訳ではよくある傾向。

「エズメ」の副題は「愛と悲惨をこめて」になっていて、「悲惨」バージョンは本邦初だと思われる。

これから読む若い人たちには、この柴田元幸・訳が標準になっていくのだろうか。

2009年(平成21年)、ヴィレッジブックス。

ナイン・ストーリーズ / 野崎孝・訳

日本の『ナイン・ストーリーズ』の超定番が、新潮文庫の野崎孝バージョン。

すべての『ナイン』は、この野崎版との比較で語られることになる。

・バナナフィッシュにうってつけの日
・コネティカットのひょこひょこおじさん
・対エスキモー戦争の前夜
・笑い男
・小舟のほとりで
・エズミに捧ぐ──愛と汚辱のうちに
・愛らしき口もと目は緑
・ド・ドーミエ=スミスの青の時代
・テディ

とにかく「バナナフィッシュにうってつけの日」とか「コネティカットのひょこひょこおじさん」とか、印象に残る日本語タイトルがいい。

「ひょこひょこおじさん」は、もう、「ひょこひょこおじさん」以外にあり得ないのではないだろうか。

「エズミ」の「愛と汚辱のうちに」というサブタイトルも、まるで映画みたいで格好いい。

訳注も充実しているので、初めて『ナイン』を読む人にもお勧め。

1974年(昭和49年)、新潮文庫。

九つの物語 / 中川敏・訳

集英社文庫の『ナイン・ストーリーズ』は、 書籍タイトルを日本語に置き換えている。

・バナナフィッシュに最適の日
・コネチカットのよろめき叔父さん
・対エスキモー戦まぢか
・笑い男
・小舟のところで
・エズメのために──愛と惨めさをこめて
・愛らしき口もと目はみどり
・ド・ドーミエ=スミスの青の時代
・テディ

「よろめき叔父さん」は、ちょっと意味が通じないかも。

「エズメ」の「惨めさ」は、訳者本人も「意訳しておいた」と、解説の中で綴っている。

1977年(昭和52年)、集英社文庫。

九つの物語 / 鈴木武樹・訳

角川文庫の『ナイン・ストーリーズ』も、日本語に置き換えられている。

『ナイン』の場合、まずはタイトルをどうするかという問題があるらしい。

・バナナ魚にはもってこいの日
・コネチカットのグラグラカカ父さん
・エスキモーとの戦争の直前に
・笑い男
・下のヨットのところで
・エズメのために──愛と背徳とをこめて
・美しき口に、緑なりわが目は
・ド・ドミエ=スミスの青の時代
・テディ

「Bananafish」は「バナナ魚」で、「A Perfect Day」は「もってこいの日」。

まあ、間違ってはいないと思うけど。

「Uncle Wiggily」の「グラグラカカ父さん」は意味不明で笑う(笑)

でも、角川文庫版は、解説や参考文献、年譜、あとがきが充実しているので、文庫版の中では一番勉強になる。

サリンジャーの許可は取れているのだろうか、、、

1971年(昭和46年)、角川文庫。

バナナ魚日和 / 沼澤洽治・訳

講談社(海外秀作シリーズ)の『ナイン・ストーリーズ』は、書名を変更してしまっている。

サリンジャー、怒らなかったのかな?

・バナナ魚日和
・コネティカットのひょこひょこウサギ
・対エスキモー戦開戦前夜
・笑い男
・小舟での出来事
・エズメに──愛と汚れをこめて
・我が人の口愛らしく目は緑
・ド・ドミエ=スミスの青の時代
・テディ

「Bananafish」は「バナナ魚」で、「A Perfect Day」は「日和」。

まあ、「運動会日和」とか「お出かけ日和」とか、そんな日本語の語感が重視されているらしい。

注目は「ひょこひょこウサギ」。

「Uncle Wiggily」っていうのは、そもそもアメリカの絵本のキャラクターで、リウマチのために足をひょこひょこ引きずっている年寄りウサギのことだ。

だから「ひょこひょこウサギ」っていうのは、ある意味で正解なんだろうけれど、小説のストーリーを考えると、結構大胆な選択なんじゃないかと思う。

固有名詞を日本語に置き換える作業って、やっぱり難しいよね。

1973年(昭和48年)、講談社。

九つの物語 / 鷲尾久+武田勝彦・訳

荒地出版社の『サリンジャー選集(4)』に収録されている。

・バナナフィッシュに最良の日
・コネチカットのウィグリおじさん
・エスキモーと戦う前に
・笑っている男
・小舟にて
・エズメのために──愛と汚れ
・美しき口もと、ひとみはみどり
・ド・ドミエ・スミスの青の時代
・テディ

「The Laughing Man」を「笑い男」以外で訳しているのは、これが初めて。

「A Perfect Day」は「最良の日」で、本当にいろいろな訳し方があるんだなと思う。

1968年(昭和43年)、荒地出版社。

九つの物語 / 山田良成

思潮社版の「現代の芸術双書Ⅲ」は、日本語の「九つの物語」。

・ばななうおにはおあつらえむきの日
・コネチカットのウィギリーおじさん
・エスキモーとの戦争の直前に
・笑い男
・ディンギーのほとりで
・エズメのために─愛と悲惨とをこめて
・わがくちはうつくしくわが瞳はみどり
・ド・ドオミエ・スミスの青の時代
・テディ

「bananafish」が「ばななうお」という平仮名表記になっているのが斬新。

「ウィギリーおじさん」は無難だけど、イマイチ意味が通じないのが残念だなあ。

1963年(昭和38年)、思潮社。

笑う男 / 福井正城・訳

これは「双書20世紀の珠玉」シリーズの一冊で、ウィリアム・マーチとジェローム・サリンジャーの作品が、それぞれ数編ずつ収録されている。

マーチの作品は「よごれのエマ」や「可愛い女房」など全五篇で、サリンジャーの収録作品は次のとおり。

・エスキモーとの開戦近し
・笑う男
・愛することとみじめさと
・バナナ魚最良の日和

『ナイン・ストーリーズ』から四つの作品が収録されているが、なぜか、注目作の「テディ」が入っていない。

短編小説としては評判が悪かったからだろうか。

「For Esme with Love and Squalor」は、「エズメに捧ぐ」がカットされてしまっているんだけど、、、

1963年(昭和38年)、南雲堂。

バナナ魚には理想的な日 / 橋本福夫

『ニューヨーカー短篇集(Ⅱ)』に収録されている。

『ナイン・ストーリーズ』収録作品の全訳ではないのが残念。

橋本福夫は、『The Catcher in the Rye』を日本で初めて翻訳したことで有名(日本語タイトルは『危険な年齢』1952年)。

1969年(昭和44年)、早川書房。

まとめ

ということで、今回は、サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』の翻訳版を並べて比較してみた。

作品タイトルの翻訳だけで、印象が違うんだから、内容を読み比べていくと、かなり新鮮な発見がたくさんある。

興味のある人は、読み比べてみてはいかが?

ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。