庄野潤三『丘の明り』読了。
本作『丘の明り』は、1967年(昭和42)12月に筑摩書房から刊行された作品集である。
この年、著者は46歳だった。
1975年(昭和50年)4月に新装版が刊行されている。
収録作品及び初出は次のとおり。
「冬枯」
・1965年(昭和40年)2月『群像』
「行きずり」
・1965年(昭和40年)3月『文学界』
「まわり道」
・1966年(昭和41年)6月『群像』
「つれあい」
・1965年(昭和40年)1月『新潮』
「秋風と二人の男」
・1965年(昭和40年)11月『群像』
「山高帽子」
・1967年(昭和42年)1月『文藝』
「石垣いちご」
・1963年(昭和38年)11月『文学界』
「曠野」
・1964年(昭和39年)7月『群像』
「蒼天」
・1964年(昭和39年)6月『新潮』
「卵」
・1967年(昭和42年)3月『朝日新聞』
「丘の明り」
・1967年(昭和42年)7月『展望』
作家の生活に密接な作品が並ぶ
本作『丘の明り』には、昭和40年前後に発表された短篇小説が収録されている。
庄野家が、東京・石神井公園から神奈川県川崎市の生田へ引っ越したのは、1961年(昭和36年)4月だから、移転して3~4年経ったあたりに書かれた作品が多いということになる。
1964年(昭和39年)9月から1965年(昭和40年)1月まで、名作『夕べの雲』が日本経済新聞に連載されており、『夕べの雲』の頃の短篇小説集と言ってもいい。
冒頭から五篇(『冬枯』『行きずり』『まわり道』『つれあい』『秋風と二人の男』)は、日常生活に題材を採った作品で、生田文学としての傾向が窺える。
例えば、『冬枯』の中で、プラットフォームで出会った若い女は「ノボリトへ行くの、どれに乗ったらいいんでしょうか」と、主人公(作家の妻)に訊ねている。
主人公は、「成城学園前」から「生田」まで帰る途中だったらしく、若い女性と一緒に電車に乗る。
『行きずり』にも「小田急線」が主要な話題となる場面があって、当時の庄野さんにとって「小田急線」は、重要な小説の素材だったことが分かる。
また、変貌著しい生田周辺の様子は、この作品集においても書き留められている。
私の家の向いにある水道局の浄水場では、一昨年の九月から工事をしている。大きな赤松や欅が生えていた山をすっかり崩して、低く平らにしてしまって、そこに新しい沈殿池をこしらえることになった。(庄野潤三「行きずり」)
長篇『夕べの雲』の周辺をとらえた作品として楽しみたいが、とりわけ、『秋風と二人の男』は、文壇での評価も高い名作として知られている。
次に、『山高帽子』『石垣いちご』『曠野』『蒼天』は、昔の家族の思い出を回想した作品群で、家族に対する強い思いに支えられた作品が並ぶ。
特に『蒼天』は、名作『静物』と同一のテーマ(妻の自殺)を扱った作品で、『静物』を読み解く上でも重要な作品となっている。
最後に、『卵』『丘の明り』の二篇は、「明夫と良二」の兄弟が活躍する物語で、やがて『絵合せ』へと結晶する作品群が、ここから始まっている。
全体として、作家(庄野潤三)の生活に、極めて密接な作品が集められていて、特に後半にはレベルの高い作品が並ぶ(前半の三作品は実験的な要素が強い)。
冬枯│街で生きる人々の姿や会話
掌編三つを組み合わせた実験的な趣の強い短篇小説。
駅のプラットフォームで出会った若い女、地元の山で見かけた若い男女、街の蕎麦屋で見かけた男女の様子が描かれている。
私はもう既婚者であり、年を取る一方であるが、この若い二人のようなことは、一度、真似してみたい気がする。しかし、そのためにはもう一回、時の針を逆に廻さねばならないとすれば、それは考えただけでも億劫である。(庄野潤三「冬枯」)
街で生きる人々の姿や会話を、そのまま再現して作品化することに、当時の庄野さんは興味があったらしい。
行きずり│聞書き小説のショートショート
掌編三つを組み合わせた短篇小説。
どのような話を、どのような順番で組み合わせるか。
このような試行錯誤は、いずれ『静物』に結晶するものだったのだろうか。
お酒が好きそうな人に見えるのに、お酒は全く飲まない。「みんなにそう云われるんですが、お酒はいっさい駄目。親父も飲まなかったんです」(庄野潤三「行きずり」)
現在の家へ引っ越してきた年の10月、東京下町の鰻屋さんで、すっぽん鍋を調理する場面を書いた話は、聞書き小説のショートショート版。
まわり道│電車で偶然聞いた乗客同士の会話
掌編二つを組み合わせた短篇小説。
いずれも電車内で偶然に聞いた乗客同士の会話が素材となっている。
蟹の絵のそばに、「毛がに」と書いてある。それを小さい男の子が、「て、が、に」と声に出して読んだのであった。(庄野潤三「まわり道」)
どこにも辿り着かないけれど、ほっこりするような話が、ふたつ並んでいて、心が癒される。
つれあい│子どものいない夫婦の孤独
子どものいない夫婦(松雄・鈴子)が、六つになる甥っ子(幸一)を連れて、お城のある町へやってきた。
一種の紀行小説である。
乗物の好きな幸一をよろこばせてやるために、彼等は「ピーポーの電車」に乗って来たのであったが(特急電車が走る時に鳴らすシグナルから、幸一はそう呼んでいた)、お城のあるこの町で下車したのは、三人だけであった。(庄野潤三「つれあい」)
子どものいない夫婦の中に、幼い甥っ子が加わったことによって、夫は妻を特別に意識し始める(「何を女房のやつ、拝んでるんだろう」)。
秋風と二人の男│妻を亡くした小沼丹との友情
主人公(蓬田)が、二年前に細君を亡くした友人(芝原)と飲みに出かける物語。
友人(芝原)は、作家(小沼丹)がモデルになっていて、当時の庄野潤三と小沼丹の交友関係を窺うことができる。
芝原の家では、亡くなったお母さんに顔も声もよく似た女の子が御飯をつくっている。ハンバーグ・ステーキを餃子が得意である。それはお母さんの料理を見よう見真似で覚えたのであった。(庄野潤三「秋風と二人の男」)
冒頭、蓬田の細君が巻き寿司をこしらえるところは、超名場面として人気が高い。
山高帽子│温かい家庭と亡き父の記憶
大阪の実家を訪ねた帰りの紀行文が全体を占めているが、物語のテーマとなっているのは、兄からもらった亡き父の山高帽子である。
主人公は、南海電鉄から南海汽船へと旅をしながら、父が元気だった頃の家庭を回想している。
「樽井」「岡田浦」「加太」といった駅の名前が出てくるが、車窓の中に彼が見ているものは、思い出の中の風景だった。
あの時分が、と彼は思った。うちのいちばん活気のみなぎっていた頃であった。二番目の兄は、入れかわりに中支へ出発した。次の年には、姉の結婚式があった。彼はまだ中学生で、下には女学生の妹と小学生の弟がいた。(庄野潤三「山高帽子」)
現代の紀行文と懐かしい過去が、巧みに入れ替わりながら、物語は進行していく。
それは彼の父がロンドンへ行った時に買ったものであった。裏に貼りつけてある、金色をした、紋章のような商標をみると、両側から二頭の獅子が向い合うようにして掲げ持っている楯に、「グリン株式会社。オールド・ボンド街四十四番地」という字が入っていた。(庄野潤三「山高帽子」)
旅をするとは、日常を離れることである。
主人公は、大阪湾を旅しながら、懐かしい、あの時代を旅していたのだ。
石垣いちご│家族思いだった長兄の記憶
本作「石垣いちご」は、物語の語り手である「彼」(庄野さん自身のことだろう)が、静岡県清水市を訪れたときの様子を描いた作品である。
彼は、戦争中にも一度、この町を訪れたことがある(昭和19年12月のことだった)。
当時、この町には、彼の九つ年上の兄が、中隊長兼砲台長として赴任していて、彼は、任官を目前にした海軍の予備学生であった。
墓参休暇で家へ帰るつもりだったところに地震が起きて、帰省することができなくなったため、清水にいる兄のところまで行ってみることにしたのだ。
ここで泊った翌朝、起きてすぐ兄と一緒に兵舎の前の道を上の方まで登って行った。すると、端は崖で、そこから海が見えた。すぐ下の田舎道をリヤカーを引いた自転車が通って行った。兄は崖の中腹あたりを指して、「あれが石垣いちごだ」と云った。(庄野潤三「石垣いちご」)
これは、ひとつの戦争文学なのかもしれない。
けれども、それは、戦争の悲惨さや醜さを描いた作品ではなかった。
戦争の中にあって、互いに信頼し合い、助け合う、家族の強い絆が、そこには描かれている。
曠野│大学生時代の満州旅行
福岡大学で東洋史の学生だったころ、主人公(23歳)は、二度目の満州旅行へ出かけた。
鏡泊湖を目指す旅だった。
旅で出会った人々の様子が、詳細に再現されている。
この景色は、六年前の夏に父が初めて満州へ行った時に見て、気に入ったものだ。あの時、父は図們(トモン)からこの線を通って佳木斯(チャムス)まで行った。そこから松花江を渡って、更に奥地へ入った三江省のホリガンというところに幹部候補生の集合教育を受けている私の二番目の兄がいた。(庄野潤三「曠野」)
大学生時代の満州紀行として、他に「秋の日」がある(『小えびの群れ』所収)。
蒼天│生と死の境目からの生還
主人公(蓬田)は、高校一年を終わったばかりの娘(和子)と一緒に、彼の生家のある「この町」を訪れている。
蓬田の家族がこの町を離れて東京へ移ったのは、ちょうど十年前であった。
かつて我が家だった家の前で、蓬田は「なつかしいという気持ではなくて、足早にその前を通り過ぎたい。そばにいる娘に対して、そういう気持になる」と考えている。
自分とそっくり同じ身体つきで(もっとあの頃は痩せていた)、顔も同じで、ただ皮膚や髪だけがずっと若くて、そのために別人のように見えるかもしれない男が、この二階屋に住んでいた。そうして、その男と一緒に若い妻と小さな女の子がいた。(庄野潤三「蒼天」)
「あれ」は、長兄が亡くなって一月後のことだった。
「この家から、二度も続いて葬式が出せるか」「どう云ってみんなに話せるか。あれだけ大勢の人に来て貰って、迷惑をかけておいて、また葬式ですとわしの口から云えるか」と、父は言った。
「そんなこと云ったって」「いま、生きるか死ぬかの境目にいるのに、そんなことを云ったって」と思いながら、蓬田は涙と一緒に飯を喉の奥に流し込んだ。
何が起こったのかは書かれていない。
蓬田の妻は、ただ、眠り続けた布団の湯たんぽで火傷をした足を、引きずっているだけだ。
ヒントは折々書かれている(「母がひとり残ってからは、もうあんなことはやらなかった」)。
結局、彼女(妻)は生き返って、和子と一緒に動物園へ出かけることができるようにまで回復する(まだ少しびっこをひく癖は直らなかったが)。
物語のテーマは「生と死の境目」である。
ひきつけをおこし、蓬田に抱えられて病院まで行く途中に正気を取り戻した幼い日の和子。
おそらくは自殺未遂をしたものと思われる長い眠りから生き返った若き日の妻。
蓬田の家族は奇跡的に「生と死の境目」から生還し、現代の東京で生きている。
「生と死の境目」を象徴するアイテムが、かつて急死した長兄が眠っている墓である。
黒い、なめらかな墓石の上から水を何度も注ぎかけていると、「もうよい。そんなに水ばかりかけるな。まわりが水浸しになってしまう」そう云う父の声が聞えて来そうであった。墓石の上の平らなところに水がたまって、春の空を写した。「ほら、空が写っている」和子は覗いてみた。(庄野潤三「蒼天」)
和子の覗いた墓石の上の水に写った空が、おそらくは作品タイトルでもある「蒼天」だろう。
自殺未遂をした若き日の妻を素材としているという意味において、この小説は「静物」と対を成す作品と言うことができるかもしれない。
卵│昭和中期を生きた家族の風景
明夫(中学三年生)と良二(小学五年生)の兄弟が活躍する家族物語。
日常生活のささやかな一場面をスケッチしながら、温かい家族のあり様を見つめている。
となりの部屋で夜おそくまで起きている和子は、「明ちゃん、やめて」という良二の寝ごとをよく耳にする。寝ごとは、いつも「明ちゃん、やめて」に決っているのだった。(庄野潤三「卵」)
昭和中期を生きた一般的な家族の風景が、そこにはある。
講談社文芸文庫版『絵合せ』に収録されている。
丘の明り│不思議な話と笑える話
和子と明夫と良二が登場する、いわゆる「明夫と良二」シリーズの作品。
夜の丘に光るものを、家族で確認しに出かけたときのエピソードに題材を採っている。
明夫は高校一年生、良二は小学六年生。
和子は、去年の春に高校を卒業した。
冒頭に登場するアメリカ民話「口まがり一家」は、『少年少女世界文学全集・アメリカ篇(1)』(講談社)から引用されている。
童話と日常生活がリンクして、物語を展開していくスタイルは、明夫と良二シリーズで頻出していたものだ。
「あ、光ってる、といったの。そしたら、みんな、うそだ、うそだ、といいながら、みたの。それでもう良二なんか真剣になってこわがって、和子にしがみつきそうにして。そしたら、みんな、見えるというの」(庄野潤三「丘の明り」)
ほとんど『サザエさん』のような家族物語だが、不思議な話と笑える話が絶妙なバランスでミックスされているところに、作家の技がある。
講談社文芸文庫版『絵合せ』に収録されている。
庄野潤三の懐かしい物語を読む
庄野潤三の小説は、なぜか懐かしい。
昭和40年代の兄弟物語も懐かしければ、戦時中の家族物語も懐かしい。
懐かしさの中に、家族を思う穏やかな気持ちが表現されている。
癒しを求めて、僕は庄野潤三の小説を読んでいるのかもしれない。
「秋風と二人の男」と「蒼天」はマスターピース。
「山高帽子」や「石垣いちご」など、亡くなった家族を偲ぶ物語も秀逸。
「卵」と「丘の明り」は、明夫と良二シリーズをまとめた作品集『絵合せ』で読みたい(講談社文芸文庫)。
書名:丘の明り
著者:庄野潤三
発行:1975/04/25(新装版)
出版社:筑摩書房