小沼丹の代表作「大寺さんもの」は、妻を亡くした悲しみを<大寺さん>という主人公に投影することで生まれた作品と言われている。
そのシリーズ最初の短篇小説「黒と白の猫」(『懐中時計』所収)では、亡妻の墓を建立した際の経緯も綴られた。
…或る日、大寺さんは娘二人を連れて郊外の墓地に行った。その墓地の一区画が入手出来ることになったので、見に行ったのである。入手出来ることになったのは、芝生の墓地で、米村さんの奥さんの墓もそこにあるらしかった。現に、大寺さんがそこに細君の墓を造る気になったのも、米村さんに勧められたからに他ならない。(小沼丹「黒と白の猫」)
この「郊外の墓地」というのが、東村山市の小平霊園である。
まるでピクニックのような墓参り
郊外の墓地を見て、大寺さんは「──何だ、随分広いな」と吃驚し、二人の娘たちは「──明るくていいわね」「──公園みたいでいいわね」などと話をしている。
実際、小平霊園にある小沼丹の墓は、まるで公園のように広い芝生の上に建っていた。
大寺さんの細君の墓が立つ筈の区画は直ぐ見附かった。四角のセメントの台が芝生の上にあるだけで、別に何の風情も無い。その五つばかり向うの墓の所に、十人ばかりの男女が立っていた。(小沼丹「黒と白の猫」)
確かに、その区画の墓は、どれも背の低い石で統一されていて、遠くまで見渡すことができる。
その見晴らしの良い芝生の墓地を、夏の風が通り過ぎていくと、炎天下の一瞬、爽やかな空間が生まれる。
青空と蝉の声。
墓参りというよりも、まるでピクニックにでも来ているみたいだ。
都立霊園公式サイト「TOKYO霊園さんぽ」では、小平霊園に埋葬されている著名人の墓を、マップで案内している。
宮本百合子、伊藤整、壷井栄、古木鐵太郎、田畑修一郎、久保栄、徳田秋成、小川未明、有吉佐和子、野口雨情、十返肇、富安風生など、多くの文人の名前が並んでいる。
さすがは、都立の大規模霊園という迫力だが、なぜか、小沼丹の名前はリストに掲載されていない。
死んでまで、俗世間の些事に付き合ってはいられないということか。
これもまた小沼丹らしい感じがする。
愛妻・和子夫人の急死と大寺さんものの誕生
小沼家の墓の墓石は、随分すっきりとしたデザインをしている。
四角い墓石の右側に、縦書きで「小沼」の文字があり、左側には大きな空白がある。
それから、大寺さんと娘は石屋に寄って、墓石を注文した。石は黒御影と云う奴にした。大寺さんは別に何の注文も無い。平凡な奴が一番宜しいと思っているのである。しかし、美術学校の図案科に籍を置く上の娘が、いろいろ石の恰好とか文字の配置に就いて尤もらしい口出しをして大寺さんを苦笑させた。(小沼丹「黒と白の猫」)
小沼丹の愛妻・和子夫人が急死したのは、1963年(昭和38年)4月のことで、この年、小沼さんは45歳だった。
妻の急死は、なかなか作品化することができず、短篇小説「黒と白の猫」が完成したのは、和子夫人の逝去から一年近くが経った1964年(昭和39年)3月のことだったらしい。
「突然女房に死なれて、気持の整理を附けるためにそのことを小説に書こうと思って、いろいろ考えてみるが、どうもぴったり来ない」と、随筆「十年前」に書かれている(『小さな手袋』所収)。
此方の気持の上では、いろんな感情が底に沈殿した後の上澄みのような所が書きたい。或は、肉の失せた白骨の上を乾いた風がさらさら吹過ぎるようなものを書きたい。そう思っているが、乾いた冷い風の替りに湿った生温かい風が吹いて来る。こんな筈では無いと思って、一向に書けなかった。(小沼丹「十年前」)
結局、大寺さんが登場するまで、一年近い時間がかかって、小沼さんは、自分の書きたいと考えていた小説を書いたということになる。
この後、小沼さんは、物語を作ることに対する興味を失って、実際に自分が体験したことを小説として発表するようになる。
現在、高い評価を得ているのは、いずれも「物語を作ることに興味を失った」後の、私小説的な作品群と言えるだろう。
墓石のデザインは、長女・諄子さんの提案が反映されているものらしい。
モダンな墓石に両手を合わせていると、エメラルドグリーン色の大きなアゲハ蝶が、我々の周りを飛び始めた。
もしかすると、これは、小沼さんかしらん?
「蝉の抜殻」という短篇小説を思い出しながら、つい、そんなことを考えていた。