庄野潤三の小説を読みながら、庄野潤三の小説に登場するレコードを聴く。
そんなレコード鑑賞会があったら楽しいだろうと考えたのは、いつだっただろうか。
今回は、若き日の庄野一家が聴いていたレコードを紹介したい。
一人でもできる「庄野潤三レコード鑑賞会」である。
『魅惑のオペラ・アリア集』(1968)
庄野潤三『山田さんと鈴虫』に、レコードについての詳しい記述がある。
昔、子供らが小さかったころ、夏の夜、レコードプレイヤーのある書斎へみんな集まって、お気に入りのレコードをよくきいた。「オペラ・アリア名曲集」というのがみんな好きで、これと阪田寛夫の童謡を集めた、東京少年少女合唱隊による「新しい少年少女の歌」の二つをよくきいた。(庄野潤三「山田さんの鈴虫」)
家族でレコードを聴く話は、実際、昔の小説にも登場していて、長女が結婚する直前の家族を描いた短編小説「絵合せ」でも読むことができる。
日曜日の晩、明りを消した書斎でレコードをきいていると、細君が、「去年と同じね」といった。「四人がここでレコードをきいていて、明夫だけ向うで勉強している」(略)暗い中にちょっと佇んでいてから、黙って床の上に横になった。みんなと一緒にレコードをきく時も、たまにはある。その時は、明夫は大きな甕の横に頭が来るようにして、床の上に寝る。(庄野潤三「絵合せ」)
家族だけのレコード鑑賞会は、この一家にとって重要なコミュニケーション・ツールとなっていたらしい。
再び、『山田さんの鈴虫』に戻ると、当時の回想が続いている。
「オペラ・アリア名曲集」のなかの女性歌手の歌で、歌の途中に、「おともだーち、待っていーる」と聞えるところがあって、そこへ来ると、みんな笑った。イタリア語であったかも知れない。このレコードに入っているのは、有名なオペラのアリアばかりであったが、曲の名は覚えていない。(庄野潤三「絵合せ」)
このとき、庄野家で聴いていた「オペラ・アリア名曲集」は、1968年(昭和43年)に東芝音楽工業から発売された『魅惑のオペラ・アリア集』である。
A面に女性歌手の、B面に男性歌手のアリアが収録されていた。
【第1面】
1.ある晴れた日に
・「蝶々夫人」第2幕より(プッチーニ)
・レナータ・スコット(ソプラノ)
・バルビローリ(指揮)
・ローマ国立歌劇場管弦楽団
2.我が名はミミ
・「ラ・ボエーム」第1幕より(プッチーニ)
・ミレルラ・フレーニ(ソプラノ)
・シッパース(指揮)
・ローマ国立歌劇場管弦楽団
3.恋とはどんなものかしら
・「フィガロの結婚」第2幕より(モーツァルト)
・エリザベート・シュワルツコップ(ソプラノ)
・プリッチャード(指揮)
・フィルハーモニーア管弦楽団
4.今の歌声
・「セヴィリアの理髪師」より(ロッシーニ)
・ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス(ソプラノ)
・グイ(指揮)
・ロイヤル・フィルハーモニック管弦楽団
5.ハバネラ
・「カルメン」第1幕より(ビゼー)
・マリア・カラス(ソプラノ)
・プレートル(指揮)
・フランス国立放送局管弦楽団
6.ああ、そはかの人か~花より花へ
・「椿姫」第1幕より(ヴェルディ)
・アンナ・モッフォ(ソプラノ)
・デーヴィス(指揮)
・フィルハーモニア管弦楽団
【第2面】
1.星も光りぬ
・「トスカ」第3幕より(プッチーニ)
・カルロ・ベルゴンツィ(テノール)
・プレートル(指揮)
・パリ音楽院管弦楽団
2.人知れぬ涙
・「愛の妙薬」第2幕より(ドニゼッティ)
・ニコライ・ゲッダ(テノール)
・モリナーリ=プラデルリ(指揮)
・ローマ国立歌劇場管弦楽団
3.女心の歌
・「リゴレット」第3幕より(ヴェルディ)
・ジュゼッペ・ディ・ステファノ(テノール)
・セラフィン(指揮)
・ミラノ・スカラ座管弦楽団
4.衣装をつけろ
・「道化師」第1幕より(レオンカヴァルロ)
・フランコ・コレルリ(テノール)
・マタチッチ(指揮)
・ミラノ・スカラ座管弦楽団
5.耳に残るは君が歌声
・「真珠採り」第1幕より(ビゼー)
・ニコライ・ゲッダ(テノール)
・デルヴォー(指揮)
・パリ・オペラ・コミック座管弦楽団
6.闘牛士の歌
・「カルメン」第2幕より(ビゼー)
・エルネスト・ブランク(バリトン)
・ビーチャム(指揮)
・フランス国立放送局管弦楽団
7.夕星の歌
・「タンホイザー」第3幕より(ワーグナー)
・ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
・コンヴィチュニー(指揮)
・ベルリン国立歌劇場管弦楽団
これらの録音は、確かに、現在聴いても、いずれ劣らぬ名演ばかりである。
庄野さんの本を読みながら、聴いていて思ったことは、このレコードに収録されたアリアは、どれも「昭和っぽい」ということだ。
マリア・カラスとかディースカウとか、現在でも普通に聴くことの多い歌手だが、あまり「昭和」という時代を意識したことはなかった(海外には「昭和」なんて関係ないのだから当たり前だが)。
ところが、庄野さんの作品の世界に入りこんでいて、このレコードを聴くと、そこは実に「昭和感」に満ちた世界なのである。
もっと踏み込んで言えば、それは、昭和時代の「庄野潤三ワールド」という世界観である。
五人家族がひとつの部屋に集まって、静かにレコードを聴く時間を共有している。
そういう時代が確かにあったということが、このレコードを聴いていて感じることができる。
そして、それは、庄野潤三の作品を読むのと同じように、素晴らしく居心地の良い世界観なのだ。
このレコードに収録されている演奏は、ほぼアップル・ミュージックでも聴くことができるので、僕はプレイリストを作って、庄野潤三用のBGMとして愛聴している。
さて、『山田さんの鈴虫』に出てくる「おともだーち、待っていーる」だが、エリザベート・シュワルツコップの歌う「恋とはどんなものかしら」の中に、どうやら、それらしい場所を見つけることができた。
それは、始まりから2分過ぎの、原詞で言えば「Non trovo pace notte né dì」という部分なのだが、聴きようによっては、確かに「おともだーち、待っていーる」と聞こえないこともない(下のアップル・ミュージックの引用では、1分17秒過ぎのところ)。
こんなところから、庄野文学を楽しんでみるのも悪くないと思う。
それは、庄野家の懐かしい思い出を共有することでもあるのだから。
『新しい少年少女の歌』(東京少年少女合唱隊)
次に、東京少年少女合唱隊による『新しい少年少女の歌』を聴いてみよう。
日本経済新聞に「私の履歴書」を連載したときの原稿料の一部を、庄野さんからご祝儀として進呈された庄野夫人は、そのお金でレコード・プレイヤーを購入する。
新しいレコード・プレイヤーは、庄野家の、いわゆる「図書室」に据え置かれた。
午後、図書室のベッドによこになって、妻がいちばんにきくことにした阪田寛夫の「少年少女日本の歌」をきく。「塩・ローソク・シャボン」から始まり、「野山をわたる風」、「青い地球はだれのもの」「かずのうた」となつかしい曲がつづく。(庄野潤三「鳥の水浴び」)
このとき、庄野夫妻が懐かしく聴いたレコードは、1974年(昭和49年)にキングレコードから発売された『東京少年少女合唱隊による新しい少年少女の歌』である。
A面に7曲、B面に7曲、計14曲の収録曲すべての作品が、阪田寛夫の作詞によるものだった。
ピアノ演奏は、全曲、三浦洋一が担当している。
【第1面】
1.塩、ローソク、シャボン
2.ブランコ
3.草原の別れ
4.野山をわたる風
5.ペンペン草
6.夜明けの馬
7.五年生
【第2面】
1.青い地球は誰のもの
2.鬼の子守唄
3.アフリカマーチ
4.みんなみんなワルツ
5.かずのうた
6.くじらの子守唄
7.わたりどり
阪田寛夫の「曲目解説」には、ここに収録された14の合唱曲は、音楽乃友社から出版された少年曲集『歌えバンバン』の中から、キングレコードの長田暁二氏が選んだものだと記されている。
選曲の基準は「世に流布されたもの」ではないことで、ここで初めてレコードになるものが大部分だった。
昔、このレコードをみんなできいていて、「かずのうた」の、「日本の歌は七五調」のあとへ男の子の声で、タタタタタタタ、トトトトトと七五調のソロが入るところで、みんな笑ったのを思い出す。(庄野潤三「鳥の水浴び」)
「かずのうた」は、もともとソロの曲だったが、東京少年少女合唱隊によるレコード録音に際して、コーラスの部分が付け加えられた。
作曲は湯山昭。
ブルース調の「くじらの子守唄」もなつかしい。湯山昭さんの作曲。「くじらが手をたたく」という歌い出しでゆったりと始まる。くじらに手はないのに、それでも海のどこかからくじらが手をたたく音が聞えて来るという歌である。きいているうちに、本当にくじらの手をたたく音が聞えて来る気持になる。ふしぎな歌だ。(庄野潤三「鳥の水浴び」)
「このレコードで初めて音になった曲です」と、阪田寛夫の「曲目解説」にある。
このレコードに収録された多くの曲は、NHKの「みんなのうた」で放送されたり(「わたりどり」)、ミュージカルで上演されたり(「塩、ローソク、シャボン」)、朝日放送のラジオドラマで放送されたり(「ブランコ」)、NHKテレビ「70年代われらの世界」のテーマ音楽に使用されたり(「青い地球はだれのもの」)など、既には発表済みの作品が多かったから、初めて演奏されて「音になる」曲というのは貴重だったらしい。
庄野夫妻の好きだった「春のまきば」は、残念ながら収録されていなかった。
全然関係ないけれど、僕は、阪田寛夫が作詞をした「世界一周」という童謡が大好きなんだけれど、これも、あまり広くは知られていないものらしい。
「世界一周」は、1967年(昭和42年)4月に、NHK「みんなのうた」で放送されたもので、西六郷少年少女合唱団が歌を担当していた。
アップル・ミュージックでは、『みんなの愛唱歌 世界の歌めぐり3 アメリカ・アジア・オセアニア編』で聴くことができる(NHK東京児童合唱団)。
思うに、昭和40年代の音楽には、庄野文学の世界観が感じられるものが多いような気がする。
それは、僕が、庄野文学の中でも、特に、昭和40年代に発表された作品が好きだということと無関係ではないかもしれない(長女・夏子は、昭和45年5月に結婚して家を出る)。
そこには、五人家族が、生田の「山の上の家」で、楽しい暮らしを送っていた頃の、懐かしい思い出がある。
『夕べの雲』『雉子の羽』『丘の明り』『小えびの群れ』『絵合せ』『明夫と良二』。
そんな五人家族の物語を読むときには、ぜひ、懐かしい庄野家のレコードを聴いてみてほしい。
物語の中の家族が、本当に(リアルに)生活していたということが、きっと理解できるはずだから。