文学鑑賞

阿川弘之「霊三題」病院で死んだ看護婦の幽霊と英霊たちの寡黙

阿川弘之「霊三題」あらすじと感想と考察

阿川弘之「霊三題」読了。

タイトルだけ読むと、何やら怪談めいているが、別にオカルトの話ではない。

幽霊にまつわるショートストーリーが三つ連なっている。

最初の「看護婦の幽霊」は、終戦後の中国で暮らしていた「わたし」が、武漢の病院で友人たちと酒を酌み交わす話である。

「わたし」は、警備指揮官として病院に泊まりこんでいる「風野」と、歯科医の「丸山中尉」、そして、丸山中尉が連れてきた2人の看護婦と楽しく酒を飲むが、「遅くなるといけないから」と言って、丸山中尉が看護婦を帰そうとすると、彼女たちは妙に帰るのを嫌がった。

後になって理由を聞くと、病院の中に死んだ看護婦の幽霊が出るというのである。

実際、丸山中尉も風間も、その幽霊と遭遇しているし、多くの職員や入院患者が、この女の幽霊を目撃しているという話だった。

風間が言った「とにかく生きている時これだけいろいろ込み入った精神的な働きをする人間がだね、死んでからも何かの形でたましいの活動を現すということはあたりまえのことだと想うよ」という言葉は、妙に説得力がある台詞である。

次の「夢枕」は、広島に原子爆弾が投下されたことを知った「わたし」が、広島で暮らす父母はきっともう駄目だろう、せめて夢枕でいいから一目会いたいと願うが、父も母も夢枕に立ったりはしない。

残念に思いながら広島へ帰ると、思いがけず両親が存命だったので、「わたし」は逆の意味から夢枕を信じるようになったというものである。

最後の「ある日」は、この「霊三題」という作品の核となる物語である。

終戦後の東京で靖国神社を参拝した帰り道の列車の中で、「わたし」は隣の乗客が読んでいる新聞の文字を目にした。

「米よこせ」「天皇に会わせろ」「デモ」「アカハタの歌を高唱し」などという文字を読みながら、「わたし」は「霊というものは静かなものだ」と思う。

霊というものは静かなものだと思った。幾十万の霊は、雲も呼ばず、嵐も起さず静かにねむっている。サイパンで死んだ佐々木、クエゼリンで死んだ寺田、航空母艦で死んだ貝塚、みんなもう飢えることもないのだ、霊が何もしないこんな静かなものなら、それだけででも、わたしたちは生命をもっともっと大切にすべきだと思った。(阿川弘之「霊三題」)

戦争で、国のために死んでいった英霊たちが、怒りに震えて世の中に災いをもたらしてくれるなら、「わたし」はこんなにも寂しくはならなかっただろう。

だが、実際には、死んだ英霊たちは寡黙であり、静寂そのものだった。

死んだ英霊たちのことさえ忘れて「米をよこせ」と叫んでいる日本の国民に、怒りの雷を落したりすることもない。

自分が生きている日本社会と、死んだ仲間たちのことを考えているうちに、「わたし」は腹立たしく、やるせなくなり、電車の吊革にぶら下がったままで、後ろの人の背中にぐらりともたれかかった。

死んだ者たちは、やっぱり何も言えないし、死んでしまえば、何かを訴えることもできないのだ。

そして、「わたし」は、「霊が何もしないこんな静かなものなら、それだけででも、わたしたちは生命をもっともっと大切にすべきだ」と考え続けている。

戦争で死んだ人間と生き残った人間との間で

この物語は、敗戦の翌年となる昭和21年9月号の「新潮」に掲載されたものである。

幽霊に関連付けながら、戦争の中で死んでいった者たちを悼む気持ちに溢れた作品である。

最初の「看護婦の幽霊」は、いかにも病院にありそうな怪談話だが、「とにかく生きている時これだけいろいろ込み入った精神的な働きをする人間がだね、死んでからも何かの形でたましいの活動を現すということはあたりまえのことだと想うよ」という風間の言葉が、この物語を文学作品にまで高めている。

しかし、この小説の最大の見せ場は、何と言っても、最後の「ある日」に尽きるだろう。

靖国神社で英霊に祈りながら「わたし」は、日常生活で生きることに忙しい人々に、怒りを感じないではいられない。

敗戦から一年が経過して、英霊たちの存在は日本社会から少しずつ忘れられていくが、英霊たちには、その怒りを伝える術さえない。

我々は、死んでから怒りを訴えることはできないのだから、せめて生きている間に生命を大切にしよう、というのが、「わたし」の祈りであり、願いである。

昭和21年。

戦争で死んだ人間と生き残った人間との間で、このような苦悩を抱えている人たちが、当時の日本にはきっとたくさんいたのではないだろうか。

英霊の存在を忘れて、日々生きることに精一杯だった日本人の姿もまた、歴史の事実の一つだと思う。

戦後の混乱が、あくまでも静かな透明感を持って、この物語の中では描かれている。

作品名:霊三題
著者:阿川弘之
初出:新潮(1946/09)

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。