村上菊一郎「ランボーの故郷」読了。
本書「ランボーの故郷」は、1980年(昭和55年)10月に刊行されたエッセイ集である。
この年、著者は70歳だった。
同僚・小沼丹の作品に寄せて
僕は村上菊一郎のエッセイが大好きである。
大好きなんだけど、村上菊一郎にはたった2冊のエッセイ集しかない(たぶん)。
一冊が『マロニエの葉』で、もう一冊が本書『ランボーの故郷』である。
僕は、どうして村上菊一郎のエッセイが好きなんだろうか。
それは、僕の知っている人たちの名前が、たくさん出てくるからに他ならない。
村上菊一郎は、早稲田大学でフランス文学を教える先生だった。
いわゆる小説家ではない。
それでも、彼のエッセイには、多くの文士たちが登場する。
その理由は、彼が阿佐ヶ谷に住居を構える阿佐ヶ谷文士の一人だったからであり、また、大学においては、小説家の小沼丹やロシア文学者の横田瑞穂と同僚だったからである。
例えば、「達人の風格」は、同僚・小沼丹について書かれた文章である。
小沼君の短篇「黒と白の猫」を読みかえしてみると、当時の奥さんのことを思い出して胸が詰まってくる。小沼君は、主人公を大寺さんなどと称して、その細君の死を淡々と客観的に叙述し、人生の悲しみを深刻ぶらずにさりげなくさらりと書いているのだが、それだけに却って哀傷の深さが重く感じられる。(村上菊一郎「達人の風格」)
小沼丹の妻が亡くなる二十日ほど前に、村上菊一郎はペンEEDで、小沼さんの奥さんのスナップ写真を撮ったそうである。
もちろん、そのときは、その写真が彼女の遺影になるなどとは、誰にも想像ができないことだった。
「井伏邸の敷居」は、建築家・広瀬三郎のことを書いた話である。
河上徹太郎、吉田健一、庄野潤三、井伏鱒二、安岡章太郎氏と書くと、何だか野間文芸賞受賞者の列挙のように思われるかもしれないが、これはわたしの友人の建築家広瀬三郎さんが邸宅を新築した文学者たちの名前にほかならない。(村上菊一郎「井伏邸の敷居」)
広瀬三郎は、このあたりの文学者界隈では有名な建築家で、河盛好藏の書庫や台所、中島健蔵の暗室兼工作器具保存室、新庄嘉章の追分山荘の離れなども増改築している。
なかでも有名なのは、『夕べの雲』以降、多くの作品の舞台となった、生田の丘の上に建つ庄野潤三の自邸ではないだろうか。
もちろん、著者の村上菊一郎も、還暦を機会に二階建ての書斎を増築する際には、この広瀬三郎に工事を依頼してしたそうだ。
阿佐ヶ谷会の思い出
亡き師への思いを綴った「天国の山内義雄先生へ」もいい。
戦後、復員したわたしは郷里に疎開したまま、小さな市立図書館の館長になって、うっとうしい日々を過ごしていましたが、そのころ先生から「敗戦後の東京は暮しにくいので、君の職をぼくに譲ってくれないか」と冗談めかしたお葉書をいただいて恐縮したことがございました。(村上菊一郎「天国の山内義雄先生へ」)
山内義雄の随筆集『遠くにありて』は、いつの座右に置いて、くりかえし拝読しているとある。
「夏の果て」は、飲み仲間だった木山捷平への追悼文である。
告別式の終ったあとは、別室で未亡人から酒肴をふるまわれた。藤原審爾、尾崎一雄、井伏鱒二、田辺茂一、伊馬春部、三浦哲郎、浅見淵、小山祐士、檀一雄、小田嶽夫の諸氏が坐っている前で、遺児の萬里君が謝辞を述べた。(村上菊一郎「夏の果て」)
阿佐ヶ谷会のメンバーのうち、ガンで亡くなったのは、外村繫、亀井勝一郎に続いて、木山捷平が三人目だった。
その阿佐ヶ谷会については「東京の詩」というエッセイの中で詳しく触れられている。
青柳瑞穂は四十六年十二月に脳軟化症で荻窪の城西病院において逝去した。七十二歳。戦後、青柳邸で催された阿佐ヶ谷会というのは、中央線沿線に住む文学者やジャーナリストたちののんきな飲み会のことで、酒を飲みながら気のおけない清談閑談を交わす集りであった。(村上菊一郎「東京の詩」)
昔の仲間たちを偲ぶエピソードは、何度読んでも楽しいものがある。
特に、阿佐ヶ谷会については、多くの参加者が思い出を綴っているので、初めてではないエピソードも少なくない。
僕が、村上菊一郎のエッセイに親近感を覚えてしまうのも、そんなことと関係があるのかもしれない。
著者の専門分野であるフランス文学に関するエッセイ(「ヴェルレーヌ文学散歩」など)も、素敵な読み物になっている。
こういうエッセイ集は、いつまでも読み継がれてほしいと思うのだけれど。
理屈抜きにして。
書名:ランボーの故郷
著者:村上菊一郎
発行:1980/10/17
出版社:小沢書店