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開高健「ロビンソンの末裔」北海道戦後開拓史で読み解く拓北農兵隊の歴史

開高健「ロビンソンの末裔」北海道戦後開拓史で読み解く拓北農兵隊の歴史

開高健「ロビンソンの末裔」読了。

本作「ロビンソンの末裔」は、1960年(昭和35年)6月から11月まで『中央公論』に連載された長篇小説である。

この年、著者は30歳だった。

単行本は、1960年(昭和35年)12月に中央公論社から刊行された。

実際の史実を踏まえたルポルタージュ的なフィクション

開高健『ロビンソンの末裔』は、戦後の北海道開拓に参加した移住者の物語として知られているが、実際にこの物語に描かれているのは、北海道開拓のみではない。

「拓北農兵隊」と呼ばれる戦時開拓事業に参加せざるを得なくなった東京都民の生活事情や、開拓団が出発する上野駅の情景、緊急の開拓者を引き受けた受入地域の実情、全国から陳情団が集まる農林省の様子など、移住者一家の生活を軸としながら、戦後日本の世相が立体的に描かれている。

例えば、主人公は、自分の仕事にやりがいを見いだせないでいる、東京都庁の下級官吏である。

私は、都庁の机のうえでの仕事がつくづくいやになっていました。ここでやる仕事といえばめくら判をおすことと、帳簿に青インキと赤インキを使いわけて数字を書きこむことだけなのです。(開高健「ロビンソンの末裔」)

惰性のような仕事に、毎日の空襲が拍車をかける

私が疲れたのは、やはり、空襲のせいです。毎日、東がつぶれ、西が消えしました。街は皮膚病にかかってただれています。(開高健「ロビンソンの末裔」)

実際、北海道へ向かう貸切列車に乗り込んだのは、空襲に脅える生活から逃れようという都市生活者ばかりだった。

話をした人のなかには、元警察官だった男とか、左官屋だった男とか、旋盤工、ボイラー・マン、株屋、大工、会社員、官吏など、いろいろな人物がいて、この汽車がまったく難民の混成旅団であることがわかりました。(開高健「ロビンソンの末裔」)

彼らが集合する上野駅の描写は、この小説において、冒頭からひとつのクライマックスを示している。

女の甲ン高い叫び声、男の罵声、子供の泣き声。みんな汗みどろになっているものですから、空気は湿ってにごり、熱くて重く、まるでおかゆのなかにつかっているようでした。(開高健「ロビンソンの末裔」)

空襲下にある東京からの脱出を目論んで、無数の人々が上野駅に集まっていたのだろう。

北海道開拓へ出発する人たちと見送る人たちの高揚感も凄い。

そして列はうごきだしたのです。改札口をとおるとき、駅長や、知事や、指導員などがずらりとならび、顔をまっ赤にして、ワッワッワッと両手をあげて万歳を叫びました。(開高健「ロビンソンの末裔」)

臨時列車に乗りこんでいたのは、北海道開拓の夢と希望に燃える移住志願者たちである。

家を建ててもらったうえに手伝えば日当が頂け、土地はあろうことか十町歩、それも一町歩は既墾地でいますぐ種がまける。おまけに荒仕事はトラクターにやってもらって、こまかい手仕事の道具はただでくれてやろうという。(開高健「ロビンソンの末裔」)

戦時政府による、まるで夢のような北海道移住政策は、実際の史実に基づいて描かれていて、『ロビンソンの末裔』が、ドキュメンタリーやルポルタージュ的な要素を含んだ小説であることは間違いない(完全なルポではないが)。

しかし、北海道へ向かう移住者たちの高揚感は、青森から函館へ向かう連絡船の中に届いた「敗戦」の知らせによって、一気に怪しくなってしまう。

指導員はそこで言葉を切ると、ちょっと黙ってから「本船は」といいました。「本船はうごいています。青森にはもどりません。ひとまず函館までみなさんをお届けします。本船は」もう一度くりかえしました。「うごいております。静粛にお願いいたします」(開高健「ロビンソンの末裔」)

北海道へ向かう開拓団の物語は、それだけで、ひとつの物語として完成されていて楽しい。

次に、続くのは、到着した北海道の受入先での思いがけない対応である。

「家は建っておりません。建てかけもおりません。どうせ明日わかることです。正直にいいます。この町に工兵隊はいません。来るはずだということはいつか聞きましたが、来ませんでした」(開高健「ロビンソンの末裔」)

実際の受入先となる市町村も、政府や道庁に振り回される被害者だった。

政府や道庁の計画は、最初から実現不可能なものだったのだ(ゆえに、一連の緊急開拓事業は、後世において、日本政府による「棄民政策」として評価されることになる)。

「そこでですね。北海道がシャツで、川が縫目だとすると、開拓民は何だというと、これは話がきたないが、シラミです」「だんだんおちるね、この人」「おちてもしかたないのじゃけれ。開拓民はシラミです。シラミは縫目につく。開拓民は川につくです。川をさかのぼって土地を開いてきたのが北海道です」(開高健「ロビンソンの末裔」)

この「開拓民シラミ論」は、『ロビンソンの末裔』の中でも、特に有名な部分として知られている。

彼らの新しい集落は「上開地区」と名付けられ、いよいよ、ここから、本当の意味での開拓生活が始まる。

つまり、少年漫画的に言えば、ここまで(第二章まで)は、「序章」にすぎなかったのだ(オレたちの戦いは始まったばかりだ)。

町長も助役も、また仲間一同もきまじめな顔をして「い、や、さ、か。上開地区万歳、万歳、万歳……!」(開高健「ロビンソンの末裔」)

本作『ロビンソンの末裔』を執筆するにあたり、開高健は、実際に北海道の開拓部落に滞在し、長期に渡る取材活動を行ったらしい。

大雪山麓の開拓地は、上川町(層雲峡温泉で有名な町)あたりがモデルになっているのではないかと考えられている(「調べてみてわかったことですが、これは大雪山のふもとです」)。

戦後日本の迷走を描く

『ロビンソンの末裔』に描かれている北海道開拓事業の背景について整理しておく。

主人公たちは、青森から函館へ向かう連絡船の中で終戦を迎えたため、実際に開拓地に入ったのは戦後になってからだが、彼らが参加した開拓政策は、連合軍の空襲による都市戦災者の増加と、都市部を中心とする食糧事情の急激な悪化への対応策として定められた『都市疎開者ノ就農ニ関スル緊急措置要項』(昭和20年3月、閣議決定)に基づくものだった(つまり、戦時中の政策)。

5月には『北海道疎開者戦力化実施要綱』により、戦災者・疎開者・離島引揚者のうち「北海道ノ拓殖農業ニ積極的ニ挺身シ、戦力増強ニ貢献セントスル真摯ナル熱意ヲ有スル者」5万戸・20万人を集団的に北海道へと送り出す方針が決定され、政府の方針を受けた北海道庁は直ちに『北海道集団帰農者受入要領』を作成する。

募集は、二十年六月から始まり、道庁と民間協力団体として結成された戦災者北海道協会では、『集団帰農の栞』を各府県に配布して宣伝招来に努めた。「来れ沃土北海道へ」といったような多少オーバー気味な宣伝文句もあったが、一方、応募者は、何んとか戦禍の巷を抜け出したいという気持ちが先立ったことも否めなかった。(『北海道戦後開拓史』)

空襲に疲弊した市民が、藁をもつかむような気持ちで、集団帰農政策に応募した様子は、多くの文献に残されている。

庁舎の広い部屋は、多勢の人でむんむんして当時の食糧事情の悪い大阪人にはぐっとくる。「手で鮭の摑み取りや、芋や豆などはよく取れるので全然食物に不自由しない」という話で、もう誰も彼もこの焼けただれた街から逃げ出したい気持で、異様な熱気がこもり、私もその雰囲気に誘われ入植を申込みましたが、これが私の人生の後半の別れ目だったのです。(戦後開拓婦人文集『拓土に花は実りて』)

あたかも、開高健の『ロビンソンの末裔』を思わせるような光景は、大阪でも同じだったらしい。

こうした帰農者は、東京都長官によって「拓北農兵隊」と命名され、1945年(昭和20年)10月末まで、計25回にわたり、3,407戸、16,974人が疎開帰農したという。

『ロビンソンの末裔』に登場する主人公一家も、こうした拓北農兵隊のひとつだったのだ。

1973年(昭和48年)に刊行された『北海道戦後開拓史』には、本作『ロビンソンの末裔』に触れた文章もある。

このように急激に行われた入植が、道をはじめ現地各市町村を混乱させた実態は想像に余るものがあったし、異常な社会的混乱の中ではじめられた入植であっただけに、制度や助成策などすべてが不充分で、徒らに入植者と受入側の苦難を多からしめたのであり、この間の事情については、後年上川開拓地に取材して「ロビンソンの末裔」として発表された作家開高健の小説にもよくえがかれている。(『北海道戦後開拓史』)

『ロビンソンの末裔』第三章では、「徒らに入植者と受入側の苦難を多からしめた」と言われるところの状況が、詳細に綴られていく。

役所は九月も終り頃になってようやくいくつかのものをくれました。鋸。イカの塩辛。島田鍬。塩昆布。それに軍隊毛布が二枚と、防寒服と防寒靴が一つずつです。(開高健「ロビンソンの末裔」)

開拓の様子は、明治初期の開拓と、あまり違わないように読める。

なぜかというと、いまつくろうとしているのは ”拝み小屋” といって、およそ人の住む建物のなかでは一番幼稚単純なもので、窓もなければ土間もない。オッと入口から入って四、五歩歩けば、そのまま裏へとびだしてしまう仕掛けです。(開高健「ロビンソンの末裔」)

昭和20年代なって「拝み小屋」が登場するとは、さすがの移住者たちも予測していなかったのではないだろうか(屯田兵だって「拝み小屋」ではなかった)。

作品タイトル『ロビンソンの末裔』は、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』に由来するものだが、ロビンソン・クルーソーは、昭和の開拓者たちよりも、ずっと文明的な生活を送っていた。

近代人であるロビンソン・クルーソーが、ヤギを家畜にしたり、丸太から板を切り出したり、パンを焼いたりと、全てを自分でコントロールするのは、イギリス人の近代人としての自立を象徴的に示しているという見方がありますが…(略)(駒井稔「文学こそ最高の教養である」)

『ロビンソンの末裔』に登場する開拓者たちは、1719年に発表された『ロビンソン・クルーソー』の主人公よりも、ずっと原始的な生活を強いられていた(もちろん、環境条件があまりにも違いすぎるが)。

ここに『ロビンソンの末裔』という小説が訴えかける、ひとつの真理があるのではないだろうか。

第三章で過酷な冬を乗り越えた主人公一家は、第四章で春を迎えて、本格的な農作業を開始するが、そもそも農耕には不向きで劣悪な環境なので、彼らの農作業は一向にはかどらない。

入植者たちは「転地申請」も検討するが、終戦を迎えて「戦後開拓」が始まり、北海道への移住を希望する者は、ますます増え続けていた。

「よう、わからんが、おなじことじゃねえかな。ここはもう整地したからあとに入る連中はよろこんで入るべし。あんたらはよそへいってまたイロハのイからやりなおすわけで、御苦労よ」(開高健「ロビンソンの末裔」)

町役場に泣きつけば、助役からはそれどころじゃないと罵られる。

「うけ入れてあげただけでもあんたがたは感謝しなくちゃいけないのに、あれをくれの、これをくれのと、こちら一人も食いかねて困っているのに、すこしいい気になってるのじゃないですかな」(開高健「ロビンソンの末裔」)

実際、復員兵や引揚者の受入れのため、町は、新たな開拓用地を早急に用意する必要に迫られていたのだ(「ノミ一匹入れるもんか」)。

厳しい冬を乗り越えて、ようやく明らかとなった現実に、主人公は絶望を抱くしかない。

政府のそそのかしにのってこんなところまで走ってしまった自分の軽薄さを悔いる気持が毎日、起りました。開拓も希望も東洋のウクライナも粉ふきジャガイモの蒸したてもへったくれもあったものか。(開高健「ロビンソンの末裔」)

ここから物語は急展開をして、帰農者たちは集団で上京し、農林省への要請活動を開始する。

冒頭のクライマックスに対比するように、ここもまた後半のクライマックスと言うことができるだろう。

このデモ隊がぼろぼろの兵隊服やモンペをひきずって汗みどろでワッショ、ワッショと叫びつつもみあっているなかをおしわけかきのけして農林省に入ってみると、ありとあらゆる課室のまえには部屋からあふれだした陳情団がおしかけて、身うごきもできないありさまでした。(開高健「ロビンソンの末裔」)

この物語は、決して、北海道の一集落の開拓だけを描いているのではない。

北海道への帰農を決心せざるをえなかった都市生活者たちの困窮や上野駅の混乱、受入先となった地域の苦悩や日本政府の狼狽ぶりまでを含めて、戦後日本の迷走を描いたものが、『ロビンソンの末裔』という小説だったのではないだろうか。

みんながいっせいに口ぐちに裸電燈の下で畑の状態を話しているのを聞くと、薄暗いなかに日本そのものがひしめいて呻き声をあげているように聞こえました。(開高健「ロビンソンの末裔」)

「いったいわれわれをあんな山奥へ追いこんだものが何であるか」──。

戦後15年を迎える中、作者は「緊急開拓事業」という側面から、日本政府の戦争責任を総括しようとしていた。

「死にはしないがまったく生きていません」という主人公の最後の言葉は、あるいは、焼け跡から復興しつつあった、当時の日本そのものを風刺していたのかもしれない。

北海道における「戦後開拓」は、知られざる戦後史の一場面である。

そして、戦後80年を迎えようとする今も、北海道の戦後開拓は終わっていない。

開拓の傷痕は、現在も道内各地に生々しく遺されているのだから。

書名:ロビンソンの末裔
著者:開高健
発行:1973/01/30
出版社:新潮文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。