安岡章太郎「サアカスの馬」読了。
本作「サアカスの馬」は、1955年(昭和30年)の「新潮」に発表された短篇小説である。
残念な少年と痛々しい馬との出会い
主人公の<僕>は、てんでやる気のない、ダメな中学生だった。
なにしろ、まったく取得というものがない。
勉強も運動も苦手で、いじきたなく、そのくせ不良少年にさえなることができなかった。
いつだって「まア、いいや、どうだって」と、心の中でつぶやいている、残念な少年だったのである。
そんな<僕>が、サーカス団の馬と出会ったのは、靖国神社の春のお祭りのときだった。
いつか僕は、目立って大きいサアカス団のテントのかげに、一匹の赤茶色い馬がつながれているのを眼にとめた。それは肋骨がすけてみえるほど痩せた馬だった。年とっているらしく、毛並にも艶がなかった。けれどもその馬の一層大きな特徴は、背骨の、ちょうど鞍のあたる部分が大そう彎曲して凹んでいることだった。(安岡章太郎「サアカスの馬」)
痛々しい馬に、<僕>は共感する。
彼は多分、僕のように怠けて何もできないものだから、曲馬団の親方にひどく殴られたのだろうか。
<僕>には、あの馬が、<僕>と同じように「まア、いいや、どうだって」とつぶやいているような気がした。
やがて、お祭りで学校が休みになった日、行くあてのない<僕>は、何という理由もなくサーカス小屋へ入った。
熊のスモウや少女の綱渡りなど果てしなく続く芸当をぼんやり眺めていると、あの馬が見物小屋の真ん中へと引っぱり出されてきた。
<僕>は、団長の親方が憎らしくなった。
何もあんなになった馬を見せ物にしなくたっていいじゃないか。
しかし、馬は、<僕>の予想を超えて、素晴らしい活躍をして見せる。
そう、驚いたことに、あの馬は、サーカス一座の花形だったのだ。
馬は、馬本来の勇ましい活発な動作と、長年鍛えぬいた巧みな曲芸を披露した。
あまりのことに、<僕>はしばらくアッケにとられていたけれど、思い違いがハッキリしてくるうちに、<僕>の気持ちは明るくなってくる。
息をつめて見まもっていた馬が、いま火の輪くぐりをやり終って、ヤグラのように組み上げた三人の少女を背中に乗せて悠々と駆け廻っているのをみると、僕はわれにかえって一生懸命手を叩いている自分に気がついた。(安岡章太郎「サアカスの馬」)
人は誰しも、自分だけの「サアカスの馬」を持っている
本作「サアカスの馬」は、典型的な少年成長物語である。
やる気のないダメな少年が、痛々しい馬に共感して、感情移入してしまう。
しかし、馬は、少年の共感するようなダメな馬ではなくて、サーカス一座の花形だった。
馬が活躍する場面を見て、少年は一生懸命に馬を応援している自分に気が付く。
馬は、もともと少年が思うように残念な馬ではなかったのだが、痛々しい姿に感情移入した少年は、馬が活躍する場面に、自分自身の勇気と自信を見い出す。
活躍する馬の姿は、未来の自分自身の姿であり、少年が一生懸命に応援しているのは、実は彼自身である。
「一生懸命手を叩いている自分」は、自分自身に励ましのメッセージを送っている、少年の姿に他ならない。
きっと、誰しも、自信と勇気を手にする瞬間というものがあるはずだ。
達成感とか自己肯定感とも呼ばれる、そんな勇気を、少年は彼自身の体験によってではなく、痛々しい姿の馬によって与えられた。
これは、アイドル歌手やスポーツ選手から勇気を与えられたと感じる、現代の少年少女たちの感覚と、それほど遠くはないものだろう。
映画によって勇気を与えられる場合もあれば、マラソンランナーから与えられる勇気もある。
少年にとっては、それがサーカス団の馬だったということだ。
そう考えると、人は誰しも、自分自身の「サアカスの馬」というものを持っているのかもしれないなあ。
作品名:サアカスの馬
著者:安岡章太郎
書名:教科書名短篇 少年時代
発行:2016/4/25
出版社:中央公論社(中公文庫)