文学鑑賞

中村明「作家の文体」インタビューで読み解く小説家たちのこだわり

中村明「作家の文体」あらすじと感想と考察

中村明「作家の文体」読了。

本書は「文体」をキーワードに作家の言語意識を問うことを目的としたインタビューの記録である。

初出は、筑摩書房の月刊誌『言語生活』昭和51年1月号から12月号まで一年間に渡って連載されたシリーズ<現代文学とことば>。

登場する作家は、井伏鱒二や永井龍男、尾崎一雄、小林秀雄、武者小路実篤、堀口大学、里見弴、大岡昇平、田宮虎彦、吉行淳之介、庄野潤三、小島信夫、円地文子、網野菊など。

作家が自分の小説を題材にして文章を語るのだからおもしろいに決まっている。

例えば、随筆とも小説とも区別の難しい作品が多い井伏鱒二。

僕は初めから決めてるんだ、うそを書いたら小説ってね。ただ、ほんとのことを書いても、小説欄に入れた方がいいこともある。原稿料が随分違うんだ。えらい苦労して旅行記を書いたって、小説よりうんと安いのね。(略)小説はうそを書いてもいいから突っこんでゆけるし、そのほうが結局ほんとのことが書けて、他人に訴えるはずなんだけども、むずかしくて、たいてい失敗するな。(「遊 井伏鱒二」)

日記とか日誌とか長い手紙とか記録体が多い?

書きやすいからですよ。日記ってもんは、文学では強いジャンルだな。今度、木山捷平の日記が出たが、みんな小説より興味をもって問題にするね。高見(順)君の日記もそうだ。(「遊 井伏鱒二」)

自然発生的な構成が多い?

ズボラなんだな、僕は。構成を立てるということはほとんどなかったですよ。僕達のころは、筋書きとか構図とかいうのは堕落だなんて言われた時期があったんですよ、葛西善蔵がうけてる時にね。映画を見ても筋書きを覚えてるようじゃだめだと横光利一は言ってたな。まず筋を忘れることだと。あれは非常に毒になった。(「遊 井伏鱒二」)

終盤に「長いのは嫌いか?」と問われて「ええ、頭がごちゃごちゃになっちまう」とあるのところも、いかにも井伏さんらしい。

会話文の終わりには絶対に丸をつけないんだ(永井龍男)

小説とも随筆とも区別の難しい作家として永井龍男が登場している。

私は私小説ってものを書くまいと思っていました。なるたけ自分から離れた題材で小説を書こうと心がけていたんです。ある時までは新聞の切り抜きをタネにしたり、作者がじかに出てこない小説を書きたいと思っていました。(略)年を取るにしたがって想像力が枯渇して、どうしても身辺雑記のようなものを書くようになりますね。(東京・あたくし 永井龍男)

省略的な文章が多い?

私の場合は主語がやたらに省略されるんで読みにくいかもしれないけども、大体、日本の文章は主語を省略しますね。平安朝や室町あたりのものの現代語訳をやったことがあるんです。そうしたら実に文章が自分たちによく似てる。衣食住は変わっても文章の底にあるものは今のわれわれとちっとも違わないと思いましてね、非常に嬉しいような、ああ、やっぱり俺は日本人なんだなって強く感じた記憶があるんです。(東京・あたくし 永井龍男)

句読点の使い方?

句読点では、会話のおしまいにカギをしますね。あの時は文末に丸を入れないんです、僕は絶対に。丸をつけると会話がいくらでも続くんですよ。(略)だから、これでこの会話は済んだのかどうか考えて、済んだのかどうか考えて、済んだと思うところでカギにするが、丸はつけません。そのためにカギがあるんだというつもりなんですよ。(東京・あたくし 永井龍男)

欧米では話しことばだけで小説を書く傾向が出てきたらしいが?

普通の会話をそのまま速記したものは小説の文章になりませんね、絶対に。この二つは全然別のもんだと僕は思うんですよ。同じ意味のことでも少し調子を変えないと文章の中には定着しないですね。(東京・あたくし 永井龍男)

作家のこだわりなんていうものは意外なところにあるらしいが、僕も会話文の「 」の終わりに丸をつけるのは嫌い。

自分で書く文章の会話文は絶対に丸で終わらないので、ひどく共感してしまった(笑)

本作「作家の文体」には、庄野潤三のインタビュー「巧言令色鮮し仁(庄野潤三)」も掲載されているので、気になった部分を、以下、書き留めておきたい。

俳句や散文詩の影響は?

俳句はほんの趣味程度で、クラスの好きな者同士で作っては見せ合ったくらいですが、自然を見る喜びみたいなものを得て新鮮な気持がしました。それがその後の文章に何か影響があったかと言えば、できるだけ簡潔に書くということでしょうね。

くどくどしく持って回った言い方をしないで勘どころをつかむ。そうしておけば、その周りは言わなくても浮かび上がる。そういう考えは今に至っても変わりませんが、これは最初俳句が好きになったことと関係があるのかもしれませんね。

(『星空と三人の兄弟』を例に)平凡な日常生活に対する感動や憧憬?

兄が戦地へ行く、無事に帰って来たかと思うと今度は二番目の兄が戦争に行く。それがやがて自分の順番になるというようなことで、無事に家族が顔をそろえるのはむずかしい。明日は保証しがたいということが、理屈ではなしに身に染み込んだのかもしれない。

ま、平和な世の中になれば、そういう感じは薄れてしまうはずなんですけれども、あとは自分の性分なんでしょうね。

噂話の聞き書きという形が多い?

直接その事がらを経験した者の口をとおして聞きますと、こちらの想像にふくらみが出るわけなんです。現場に立ち合うよりも、芸術的な喜びと言いますか、新鮮さがあると、いつともなしに考えるようになりました。

それは僕自身の臆病なところが関係しているのかもしれないと思うんです。自分が物事にじかにぶつかるよりも、他人の話を聞いて、その中から自分の好きなものを選り出して、そこに一つの世界を組み立てるほうに気持が惹かれるんですね。

よく小説家は泥にまみれなきゃいけないって言うんですけど、僕は「泥にまみれる」っていうことばが嫌いなんです

(『鍛冶屋の馬』を例に)話し手の会話の中に自然描写が想像の形で入っている?

それは自然描写と言うよりも、僕の気持としてはその時の四季ですね、俳句の季語に当たるものを挿むことによって、周りの空気とか大気というものを読者に感じ取ってもらいたいんで、描写という気持はないわけです。

平明な用語がほとんどだが、誰にでもわかる表現ということか?

はっきりそういう気持がありますね。二つの言い方があって、耳から聞いた場合、片一方はすぐにわからない、片一方はわかるというなら、躊躇なしにわかるほうの言い回しを探る。そうするとおのずと平明になってきますね。

作品の初めと終わりは意識するか?

終わりのほうは、書いて行ってる勢いでひとりでに終わりになるというのが望ましいし、また、大体そうなります。作品の内容でもっておのずと最後に到達したというふうなのがいいように思うんです。

初めのほうは、自分の書きたいことをどうすればうまく引き出せるか、どう入って行くかを考えますけれども、終わりは全くその時まかせです。

(『静物』を例に)人名や地名をはっきり出さない?

東京とか石神井公園とかいうことばが出ることによって読者に生じる連想、そういうものを避けるために、なるべく要素だけにするということですね。世界のどっかの国にこういう男が住んでおりましたというふうな、中村さんのおっしゃるような童話あるいは寓話という気持は僕の中にあったと思います。

もう一つ、私小説という尺度でもって小説を見ると非常に窮屈になるので、ただ、こういう家族がおります、夫と妻、父親と男の子、あるいは女の子というふうな形で出すということを意識していきたいと思いますけれども。

(『鍛冶屋の馬』を例に)人物関係の説明が少ない?

それは僕の悪い癖なんですよ。ただ、それを説明しようとしますと、明夫というのは井村の子で、二人いる男の子の上のほうだというふうなことになるんですけど、それより前に、現在目の前に起こっている、井村がおもしろいと思っている話を読者に伝えたいものですから、できるだけ手間を省略してしまうんです。

しまいまで読んでもらえればその一家のことがわかるだろうという気持なんですが、それは僕の不親切で、よくわかるように最初にちょっと入れておいたほうが、ほんとはいいんでしょうね。

挿話の配列の順番に意味はある?

『静物』なんかの場合ですと、あの小説が成り立つかどうかは、その順序によると言っていいぐらい自分では苦しんだわけです。極端に言えば、三番目と四番目を逆にしたら作品は成り立たない。作者の中にある一つの美的世界を築くためには、その順序とか間の空白が必然的なものでなきゃならない、という気持があります。

(『鍛冶屋の馬』を例に)連作短編は長篇とは呼べない?

テーマはこれで、導入部はこれで、こういうプロットで、最後はこうなる式のヨーロッパ風の長編ははなはだ不得手ですから、ああいうふうにエピソードを綴ったものが積み重なって一つの長編的な世界を成すという形になる。つまり短いものを書く書き方でしか書けないんですよ、僕は。

あれは一編ずつ独立しても読めるけど、順序を変えずに通して読んでもらいたい、、それによって奥行きが伝われば、という考えですから、作者の気持としては長編と言ってもいいと思います

文章が変わってきたと感じることは?

古い原稿用紙を見て、こんな字を書いてたのかなと思うことがありますから、文章も少しずつ変わっていってるんじゃないですか。ある時期はさっきの英語の会話みたいにポキポキした感じがありましたね。

『静物』のころは、枝葉を取り去る、センテンスも短く短く、ということを考えすぎて気持のゆとりがなかったと思います。今はもう少し柔らかさ、しなやかさが出てきてると思うんですね。

ふくらみのある文章が理想ということか

そう、ふくらみというのはいいことばですね。彫琢した文章よりも内容が大事で、内容が優れていればおのずといい文章になる。いい文章には必ずいい内容があるはずだから、文章の外形を彫琢するんじゃなくて、書く内容に思いを致すことが大事だと思うんですよ。巧言令色鮮し仁という考えで書いて、しかも読後にふっくらとした印象が残るのがいい文章なんですね。

美しい文章と言われることに抵抗はあるか?

それより、ユーモアがあると言われたほうがうれしいですね。僕が求めてるのは美しい文章じゃなくて、読んでるとひとりでに笑えてくるような文章なんです。ユーモアっていうのは出そうとして出せるもんじゃないんですけどね。

滑稽味というよりもヒューマー?

そう、イギリス風に言えばヒューマーですね。人間の生活を見てますと、わざとらしいのはちっともおかしくなくて、人間がまともに生きてるのを見ると、どっかしらおかしいところがあるものですね。まじめなところにしかおかしみも悲しみもない、というのが僕の文学観なんです。

書名:作家の文体
著者:中村明
発行:1972/12/10
出版社:筑摩書房

ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。