島崎藤村「桜の実の熟する時」読了。
本作「桜の実の熟する時」は、1919年(大正8年)1月に春陽堂から刊行された長篇小説である。
この年、著者は47歳だった。
『桜の実の熟する時』から『春』へ
本作「桜の実の熟する時」は、進路問題に悩む青年の恋と友情の物語である。
もっとも、明治20年代の恋愛だから、現代のように派手なトラブルが起きるわけではない。
仲の良い女性と男女関係にある──。
そんな噂を立てられただけで、女性との距離感を保たなければならない、そんな時代だった。
まして、主人公<岸本捨吉>は、キリスト教を信仰していたから、男女交際にも厳しい制約があったのかもしれない。
とにかく、この物語は、捨吉が、年上の女性<繁子>との恋に破れた苦しい場面から始まる。
足立が前に言ったことは、ふと捨吉の胸を通過ぎた。「何故、君はあんなに一時黙っていたんだ」と足立が尋ねたが、そう直截に言ってくれるものはこの友達の外に無い。捨吉はその時の答をもう一度探して見た。(島崎藤村「桜の実の熟する時」)
失恋の痛手から逃れるため、従前の交際関係をすべてリセットした捨吉の前に現われたのが、菅や足立、青木、岡見といった、後に一緒に文学活動をすることになる仲間たちである。
島崎藤村の自伝的小説とも言われる『桜の実の熟する時』において、主人公捨吉は島崎藤村、菅は戸川秋骨、足立は馬場孤蝶、青木は北村透谷、岡見は星野天知など、モデルがはっきりとしている。
彼らは、後に『文学界』を立ち上げる主要メンバーとなるが、『文学界』創設以降のことは、同じく島崎藤村の長篇小説『春』に詳しい。
つまり、本作『桜の実の熟する時』は、『春』以前のことが書かれた物語であり、登場人物の名前も『桜の実の熟する時』と『春』とでは共通しているから、この二つの作品は、島崎藤村の青年期を描いた一連の作品として読むことが可能である。
この作、『春』とは作品としての意図も異なり、著作の時も異なっているが、自分等の早い青年時代を書いたものであり、『春』にある同じ青年男女の群像はこの作の中にも取り扱っているのである意味では『春』の序曲とも見らるるであろう。(島崎藤村『桜の実の熟する時』の後に)
僕は、先に『春』を読んでから『桜の実の熟する時』を読んだが、その順番に配慮する必要は、あまりないような気がする。
登場人物が共通しているとはいえ、物語のテーマは、それぞれの作品の中で完結しているからだ。
前書きで著者は「これは自分の著作の中で、年若き読者に勧めてみたいと思うものの一つだ」と綴っている。
青年期の苦悩には、時代を超えて共感できる普遍性があるのかもしれない。
自分探しの物語
この物語を読んで気付いたことが一つある。
僕は、青春の日々を描いた青春小説が、若い頃から大好きだったけれど、年老いてもなお、青春の日の苦悩には共感することができる、ということだ。
主人公の捨吉は、恋愛問題や家族関係など、あらゆる苦悩を抱えて生きる青年だが、最大のテーマは、やはり進路問題だろう。
実業家になることを望む周囲の期待を裏切って、捨吉は流浪の旅へと出発するが、このラストシーンこそ、この長篇小説のクライマックスだと思う。
「まだ自分は踏出したばかりだ」と彼は自分に言って見て、白い綿のようなやつがしきりに降ってくる中を、あちこちと宿屋を探し廻った。足袋も、草鞋も濡れた。まだ若いさかりの彼の足は踏んで行く春の雪のために燃えた。(島崎藤村「桜の実の熟する時」)
捨吉の放浪の旅は、もちろん、若者の自分探しの旅である。
この「自分探しの旅」の続きは『春』で描かれているとおりだが、本当は『桜の実の熟する時』という長篇小説そのものが、自分探しの物語だったのかもしれない。
なぜなら、青年期というのは、常に自分探しの旅の中で生きているようなものだからだ。
若者は、苦悩の中にあることで青春小説に共感し、年配者は、青春の日の苦悩を思い出すことで、青春小説に共感する。
つまり、青春の日の苦悩は、誰もが通る道であって、ある意味で、人間としての苦悩そのものと言えるのではないだろうか。
「まだ自分は踏出したばかりだ」と自分自身に言い聞かせるようにして旅を続ける捨吉の姿は、人生に疲れた大人にも、十分に共感できるものだと思う。
タイトルの「桜の実の熟する時」は、子どもから大人へと成長しつつある青年期を象徴したものだろう。
風が来て桜の枝を揺るような日で、見ると門の外の道路には可愛らしい実が、そこここに落ちていた。「ホ、こんなところにも落ちてる」と捨吉は独りで言って見て、一つ二つ拾い上げた。(島崎藤村「桜の実の熟する時」)
著者の島崎藤村は、この物語を「若者のために書いた」と言った。
確かに、本作『桜の実の熟する時』は、将来ある若者のために書かれた青春文学には違いないだろう。
しかし、僕は、この物語を、かつて青年だったすべての大人にも読んでもらいたいと思う。
特に、青春の日の初々しさを忘れて、人生に疲れてしまっている中年期の方々には。
ただし、この物語は、年老いて青春の日を回想し、「あー、懐かしいなあ」としみじみするような小説ではない。
「まだ自分は踏出したばかりだ」という言葉のとおり、未来に向かって進んでいく人たちに向けて書かれた、出発の物語なのである。
そして、人生の中で、出発は何度あってもいい。
疲れた人生に活力を与えてくれる物語とは、こういう物語のことをいうのだろう。
書名:桜の実の熟する時
著者:島崎藤村
発行:2009/09/10
出版社:新潮文庫