「さっぽろ雪まつり」の季節である。
2026年(令和8年)でなんと「第76回」である。
200万人を超える来場者を集める、この巨大イベントはどこからやってきたのだろうか?
「さっぽろ雪まつり」の始まりを探ってみた。
さっぽろ雪まつりはどうやって生まれたのか?
「さっぽろ雪まつり」は、すっかりインバウンドの外国人のためのイベントで、札幌市民のためのお祭りではなくなってしまった。
地元市民の間に、そんな声がある(もうずっと前からだが)。
果たして「さっぽろ雪まつり」は、札幌市民のためのイベントだったのだろうか?
「さっぽろ雪まつり」公式サイトに「さっぽろ雪まつりの歴史」が紹介されている。
さっぽろ雪まつりは、1950年に地元の中・高校生が6つの雪像を大通公園に設置したことをきっかけに始まりました。(「さっぽろ雪まつりの歴史」公式サイト)
かなりあっさりとした記述で、なぜ「雪まつり」が始まったのかという背景事情は書かれていない。
古い新聞の中に「さっぽろ雪まつり」誕生の経緯を見つけた。
そもそものはじまりは、なんのことはなかった。でかい雪ダルマでも大通公園につくって、夜はかがり火をたき、市民が集まってフォークダンスでも踊ろうじゃないか。冬の一日を楽しく、ロマンチックに過ごそう――そんな着想だった。戦後の混乱がやっと落ち着きかけた二十四年、当時はフォークダンスばやりのころだ。しかし、この着想はしだいにふくれあがった。「雪は天が与えた贈りものだ。雪まつりと銘うって札幌の観光名物に仕立てよう」二十五年一月十八日、大通七丁目で雪まつりは誕生した。(「雪まつり物語(上)」/『北海道新聞』1962/2/3)
つまり、暗い冬だけど、みんなで何か楽しいことでもやらかそうじゃないか、というのが、雪まつり発祥のきっかけだったらしい。
「市民が集まって」と言いながら「札幌の観光名物に仕立てよう」ともあるから、「観光」は雪まつりの大きなテーマだった。
時代は1950年(昭和25年)。
着想の背景となっていたのは学校の取組だった。
その一つは、本書の序文にあるように、市の経済部長で観光協会常務理事だった板垣市長の抱いていた発想がある。それは、戦前市民に冬の行事として親しまれていた一中(現南高)の「雪戦会」と、小樽の子供たちが校庭の雪を固めて作った小雪像とを結びつけたものであった。(吉岡道夫「雪まつりの誕生」/『さっぽろ文庫47 雪まつり』)
札幌市の文化的な歴史は、大抵の場合『さっぽろ文庫』(札幌市教育委員会)にまとめられている。
旧制・第一中学校(札幌南高校)の「雪戦会」と、小樽市北手宮尋常小学校の「雪まつり」は、札幌市民の間でも知られていた。
札幌市が協力要請を行った北海道民事部(ニブロ氏)に対し、北海道教育委員会は感謝決議を行っている。
本道の六・三制整備をはじめ高校統合、男女共学に協力され、明るいレクリエーションとして永久に道民の生活に残るスクエアダンスを普及された努力を感謝する。(北海道教育委員会の感謝決議/『さっぽろ文庫47 雪まつり』)
「さっぽろ雪まつり」のイベントのひとつだった「スクエアダンス」が、教育的行事として紹介されている。
戦後、人心が乱れる中、青少年の非行犯罪も多く、「さっぽろ雪まつり」には教育的効果も期待されていたらしい。
第一回の雪まつりが開かれたのは昭和二十五年。名称も「雪まつり」「雪の祭典」と二つ出た案のうち、「みんなに親しまれるには少しでも柔らかい感じの名称に、ということで『雪まつり』にした」(原田第一助役)というところから話は始まった。(「雪まつりで座談会」/『北海道新聞』1959/1/25)
名称については「雪まつり」と「雪の祭典」の二案を検討した結果、市民にも親しみやすい「雪まつり」に決定したという。
それでも「さっぽろ雪まつり」は、当初から「観光客誘致」を目的とするイベントだった。
「札幌観光協会」が企画を立案し、「札幌市」が主催に加わった。
雪まつりを始めた動機はといえば、戦後観光北海道が叫ばれて、本州はじめ外国からもしきりに観光客が渡道するようになったとはいうものの、これは全く夏場に限られ、冬将軍の訪れとともに客足はバッタリ途絶えるのがならいだった。これではいけない。冬の北海道の大自然の魅力や、ゴウゴウと燃えるストーヴの傍らでくみ交すビールのうまさなど、冬の北海道にも数々の楽しみがあることを観光客に知ってもらいたい。(札幌観光協会副会長・佐々木徳三郎「雪まつりと観光」/『北海道新聞』1955/2/22)
もちろん、「観光客」の中には「札幌市民」も含まれていたことだろう。
当時の冬は、札幌市民にとって外出する季節ではなかった。
それとともに、スキーやスケートに出かけられる人々は別として、とかく室内に閉じ籠りがちな道民の生活を戸外に開放されるよう、明るくうるおいのある催しを設けたいと、こうした気持ちから観光協会や関係者の間で話し合ったあげく、雪まつりをやることに決まったわけである。(札幌観光協会副会長・佐々木徳三郎「雪まつりと観光」/『北海道新聞』1955/2/22)
「明るくうるおいのある催しを設けたい」とあるのがいい。
地下鉄も地下街も、まだなかった時代、冬の札幌はまさしく「暗闇」のようなものだった。
あるいは、戦後の世相が、札幌の冬を一層暗く包みこんでいたかもしれない。
冬の札幌の新名物となった「雪まつり」が、今年も二十六、二十七日の両日華やかに野外で幕を開ける。昭和二十五年から始まった、この雪中の行事も今年で六回目を迎え、年々盛んになって観衆が増えてゆくのは喜ばしいことである。とくに今年はこれを目がけて二十日すぎに横浜から外人観光団が大挙飛行機で押しかけて来ることとなっており、冬の札幌としては初めての本格的な観光客だけにわれわれも大いに期待している。(札幌観光協会副会長・佐々木徳三郎「雪まつりと観光」/『北海道新聞』1955/2/22)
1955年(昭和30年)の「雪まつり」には、「横浜から外人観光団が大挙飛行機で押しかけて来る」とある。
インバウンドの歴史は、既に70年前から始まっていたのだ。
さっぽろ雪まつりは昭和25年から始まった
「さっぽろ雪まつり」の誕生は、確かに札幌の歴史を変える出来事だった。
雪まつり、ひしめく三万の人波
あかあかと燃え上がるかがり火と眩しいイルミネーションに照らし出された大雪像、拡声器を流れ出る音楽、冬空にさく裂する花火と人々のどよめき。北国の冬の憂さを一挙に晴らそうと、札幌市と札幌観光協会では本社後援で十八日昼夜、市内大通西七丁目の広場で華やかな「雪まつり」を開いた。(「北海道新聞」1950/2/19)
真冬の新しいイベント「雪まつり」に対する札幌市民の期待が、当時の新聞からは読み取ることができる。
「かがり火」で雪像を照らし出すなんて、案外今やったら外国人観光客に受けるかもしれない(環境問題的にダメか)。
「冬空にさく裂する花火」は現代でもできそうだけれど、会場が中心部の「大通公園」では安全面で課題があるんだろうな。
昔のイベントは手づくりだけに、人間的な味わいが魅力だった。
雪まつり前奏曲
札幌大通西七丁目広場を中心に、初の六花行事を繰り広げる「雪まつり」をいよいよ明日に控え、市と札幌観光協会ではその準備に大わらわだが、当日は北国の冬の憂鬱さを一挙に吹きとばしてしまおうと、アノ手コノ手の珍趣向がこらされている。会場六つの大雪像作りに一役買わされた市内中・高校のうち、十六日午後まず北辰、北海両中学生約百名がシャベル片手に出動、先生の指導で雪像の骨組三つを作り上げた。(「北海道新聞」1950/2/17)
「会場六つの大雪像作りに一役買わされた市内中・高校」とあるのは、北海高校、札幌工業高校(当時は伏見高校)、札幌西高校(当時は第二高校)、北辰中学校、向陵中学校の、計5校。
彫刻家として有名な坂胆道が指導する北辰中学校は、ふたつの雪像を制作している。
ポスター制作は、商業デザイナー(栗谷川健一)が担当するなど、地元の芸術家の活躍が大きかった(画像は『さっぽろ文庫47 雪まつり』より)。
そういう意味で、最初の「さっぽろ雪まつり」は、確かに札幌市民のためのイベントだった。
市民のお祭りは、道内・道外から観光客を集め、やがて、遠く海外からも札幌へ観光客が訪れ始める。
観光協会の目的は見事に達成されたわけで、現在「さっぽろ雪まつり」は(外国人)観光客のためのイベントとして認知されているのが現実だ。
なにしろ、地元中高生の作った雪像が目玉で、スクエアダンスで市民が踊り狂った昭和20年代とは、まったく時代が違う(スクエアダンスってなんだ?)。
地下街が発展し、ネット環境も整う中、「さっぽろ雪まつり」に対する札幌市民のニーズは、既に昔とは違うものになった。
札幌市民の心は離れて、集客もインバウンドが中心。
それが、現代の「さっぽろ雪まつり」なのではないだろうか。
買い物のため訪れた札幌市民が、大通公園で驚いていた。
「ああ、雪まつり、やってるんだ。なんか、人多いと思った」
これからの「さっぽろ雪まつり」は、もっと札幌市民から遠いところへと向かっていくのかもしれない。
書名:さっぽろ文庫47 雪まつり
編集:札幌市教育委員会
発行:1988/12/19
出版社:北海道新聞社

