そのとき、彼は35歳だった。
新築マンションを購入しようとしていたときで、引っ越しを機会に、インテリアや雑貨にもこだわってみようかと思ったのがきっかけだった。
最初に彼は、日常遣いの食器にアンティークを採り入れてみたいと考えた。
もっとも、雑貨にも骨董にも素人の彼には、どこへ行けば、そういう器を買うことができるのかということさえ分からない。
妻は、端から「生活」になんて関心のない女だった。
インターネットで探すと、市内に「ナカジマヤ」という骨董屋のあることが分かった。
昭和30年代に生産されていた、昭和レトロな食器を扱っている店らしい。
いわゆる「アンティーク」とは、ちょっと違うような気がしたけれど、とりあえず彼はその店へ行ってみることにした。
昭和42年生まれの彼にとって、昭和30年代の食器は十分にビンテージであると思えたからだ。
初めての店というのは入りにくいものである。
まして、それが間口の狭い小さな個人ショップであればなおさらだ。
彼は妻を伴って「ナガシマヤ」へ入った。
小さいながらも、店内びっしりに食器が並べられている。
照明や食器棚の雰囲気とも相まって、店内はほとんど昭和30年代というムードである(
もちろん、彼は昭和30年代をリアルには知らない)。
「ナガシマヤ」は、美品にこだわりのある骨董屋だった。
その頃(2001年頃だっただろうか)、戦後の食器を専門に扱うショップというのは、少なくとも市内では、まだかなり珍しかっただろう。
その日、彼は、黄色いストライプの入った、細長いグラスを買った。
未使用品で、1客1,000円。
高いか安いかさえ、そのときの彼には分からなかったけれど、初めての骨董品に、彼は満足していた(もしも、その昭和レトロなコップを「骨董品」と呼ぶことができればの話だが)。
「ナガシマヤ」のオーナーは、ストライプの入った、そのグラスを盛んに讃えた。
「冷たいカルピスなんか入れて飲むと最高ですよ」
オーナーの話によると、そのグラスは、昭和30年代に流行したもので、彼は箱入りのデッドストック(未使用品)を大量に仕入れているらしい。
グラスには「佐々木硝子」というメーカー名をプリントした小さなシールが貼られていた。
その夜、彼は、引っ越し前の社宅で、氷を浮かべた冷たいカルピスを飲んだ。
飴色がかった肉厚なグラスで飲むカルピスは、確かに贅沢な味がした。
佐々木硝子株式会社
明治35年(1902年)創業の国産ガラスメーカー。
東京神田の「佐々木宗次郎商店」が発祥。
当時の営業主体は石油ランプで、ハワイや中国、東南アジア諸国へも、ランプを輸出していたという。
昭和15年(1940年)にガラス用の印刷機を開発。
日本製プリントグラスの発展へと導いた。
平成14年(2002年)、「東洋ガラス株式会社 ハウスウェア部門」と合併。
現在も「東洋佐々木ガラス株式会社」として、多くのガラス食器を生産している。