佐藤春夫「わんぱく時代」読了。
本作「わんぱく時代」は、1957年(昭和32年)10月から1958年(昭和33年)3月まで『朝日新聞』に連載された長篇小説である。
連載開始の年、著者は65歳だった。
単行本は、1958年(昭和33年)6月に講談社から刊行されている。
佐藤春夫の少年時代を回想した自叙伝的小説
最後の一行を読み終えた瞬間に涙が出た。
前のページを読んでいるときまで、全然そんな小説だとは思っていなかったから、我ながら驚いた。
なぜ、僕は『わんぱく時代』を読んで泣いたのだろうか。
物語はこれで終る。もしお昌婆さんがこれを読んで、そぞろに昔をしのび、ともに語ろうと言うなら、今度こそものぐさな僕も尾張半田ぐらいは遠しとはしない。命あって白髪の翁と媼とが遠いむかしのほのぼのとした恋心を思い出に語るのもまた、人生の楽事と思う僕だから。(佐藤春夫「わんぱく時代」)
おそらく僕は、主人公<須藤>の幼馴染的な女の子<お昌ちゃん>の身の上に泣いたのではないかと思う。
なぜなら、主人公の須藤にとってお昌ちゃんは、故郷・和歌山県新宮を象徴する存在だったからだ。
本作『わんぱく時代』は、著者・佐藤春夫の少年時代を回想した自叙伝的小説である。
前半は、少年らしい活気に満ちた「戦争ごっこ」の展開が綴られ、後半ではともに戦争ごっこで戦ったライバル<崎山栄>のはかない生涯が語られている。
血のつながらない姉弟であったお昌ちゃん・崎山と須藤は、少年時代をともに共有する仲間だったが、淡い恋人関係にあったとも言えるお昌ちゃんは、貧しくて複雑な家庭環境を背景に、18歳にして身を売られていく(このとき須藤は15歳だった)。
後年、詩人となった須藤は「少年の日」という詩を書き、この詩を読んだお昌ちゃんは、そこに少女時代の自分の姿を見出している。
……うつくしいご本にわたくしの名までお書きそえいただき、わたくしなどにはわかるまいと思いながら、おなつかしさに拝見しはじめたら、わからぬながらに大へん面白く、うれしく何度もくり返し読ませていただきました。「少年の日」というのがもしわたくしのことなら、うれしいと思います……(佐藤春夫「わんぱく時代」)
佐藤春夫の「少年の日」は、「野ゆき山ゆき海べゆき」から始まる文語定型詩で、「君が瞳はつぶらにて/君が心は知りがたし」と描かれている<君>こそ、少女時代のお昌ちゃんだった。
この物語は、単に少年時代を回想しただけのものではなく、老人になった須藤が、少年時代を懐かしくも思い出しており、そこに現在のお昌ちゃんが突如として現れるという展開にこそ、大きな意味があるのだと思う。
なぜなら、懐かしい故郷の風景がすっかりと変わり果て、親友だった崎山が既に亡くなっている今、須藤にとってお昌ちゃんは、故郷・新宮を象徴した存在に他ならないからだ。
最後の一行を読み終えたとき、僕の眼から流れた涙は、須藤の郷愁に共鳴した涙ではなかっただろうか。
長い長い物語を読みながら、一読者である僕もまた、新宮の町で戦争ごっこを繰り広げていた少年たちの一人となっていたのかもしれない。
文学者・佐藤春夫の誕生と大逆事件
イノセントな少年物語は、後半になって突然、幸徳秋水らが処刑された「大逆事件」へと話を大きく展開させていく。
大逆事件で処刑された医師<大石誠之助>は、『わんぱく時代』にも<町のドクトル大石誠之助さん>として登場する新宮の人だった。
そして、幼馴染だった崎山もまた、大逆事件に連座した罪人の一人と再登場する。
少年時代の崎山は、<永山>という被差別部落のあり方に関心を持ち、そこで活動する人々と関わりを深めていった。
もちろん、それが彼の人生を左右する大きなきっかけになるとは、誰一人として予測もできなかっただろう。
この「大逆事件」は、須藤という一人の詩人の文学にも、いずれ大きな影響を与えることになるのだが、須藤が詩人を志した経緯もまた、この物語を構築する大きな柱の一つとなっている。
「僕、僕は詩人になるのだ」「詩人? 詩人って、なあに?」「歌や詩をつくる人さ。さっきの春高楼の歌だって土井晩翠という詩人のつくったものだよ」「そう? あんな歌を書く人になるの、いいわね!」(佐藤春夫「わんぱく時代」)
もっとも、「詩を作るより田を作れ」と言われた時代、九代続いた医者の家系で、息子が「詩人になりたい」などと言って簡単に許されるはずがない。
猛烈に反対する父に対して、「せっかく立てた志なら、その道で笑われないだけの人になるがよい」と、母は少年を励ましてくれる。
詩人・須藤(佐藤春夫)の誕生には、このような母の支えも大きかったのだろう。
やがて、文学者として成功した須藤の活躍ぶりは、懐かしいお昌ちゃんの耳にも入ったらしい。
出版社の人間を通して、お昌ちゃんの消息を知った須藤は、自分の著作を一冊、お昌ちゃんへと贈る。
僕は書房にまだ何部かあった初版本を出してもらって、何と書いたものかと思案の末、自分の署名といっしょに「お昌ちゃん」とむかし呼んだとおりにしたためた一冊を支配人の手を通して送ってもらうことにした。(佐藤春夫「わんぱく時代」)
こうして届けられた須藤の著作(『殉情詩集』だろう)を読んで、お昌ちゃんは、須藤へと手紙を書いて寄越す。
それが、「少年の日」という作品に少女時代の自分を見つけたという、お昌ちゃんの、あの手紙だった。
大人であれば、人は誰しも自分の中に少年時代や少女時代の記憶を持つ。
自分の中の少年時代の記憶が、この『わんぱく時代』という作品に共鳴したとき、僕は思いがけずに涙を流すことになったのではないだろうか。
書名:わんぱく時代
著者:佐藤春夫
発行:2010/10/08
出版社:講談社文芸文庫