高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」読了。
本書は、小説家による、小説の書き方についての本である。
もっとも、実際に小説を書いてみようと思っている人にとって、本書が有益な情報となるかどうかは謎である。
なぜなら、本書は「小説教室」の姿を借りた文学論(あるいは小説論)に他ならないからだ。
本書で、著者は、小説を書くための鍵(ヒント)を、全編を通して計20個提示しているが、その多くは小説に対しての概念であって、テクニックではない。
例えば、最初の鍵は「なにもはじまっていないこと、小説がまだ書かれていないことをじっくりと楽しもう」であり、二つ目の鍵は「小説の、最初の一行は、できるだけ我慢して、遅くはじめなければならない」である。
三つ目の鍵も「待っている間、小説とは、ぜんぜん関係ないことを、考えてみよう」であり、小説を書くための具体的な方法は提示されていない。
しかし、小説家にとって大切なことは、思いついたことを書き散らすことではなく、構想が熟すのを待つことだということは分かる。
だから、本書はハウツー本ではなく、小説論についての本だと考えられるのだ。
あかんぼうみたいにまねること、からはじめる。
もちろん、小説を書きたいと考えている人にとって、具体的に役に立つ鍵もある。
鍵の16は「小説を、あかんぼうがははおやのことばをしゃべることばをまねするように、まねる」。
ここで著者は、その具体的な事例として、レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』と、村上春樹『羊をめぐる冒険』の一部を並べて、その類似点を具体的に指摘してみせる。
昔、チャンドラーという人が、ある小説を書いた。それを読んだ村上さんは、素晴らしいと思った(小説をつかまえた)。村上さんもまた、ボールを求めて、グラウンドを走り回っていたのだ。そして、小説をきちんとつかまえることができた人が、みんな、そう思うように、村上さんは、ただつかまえることに満足せず、その小説をまねよう、と思った。(「レッスン6 あかんぼうみたいにまねること、からはじめる。生まれた時、みんながそうしたように」)
著者の小説論の根底にあるのは、文学の系譜の重要性である。
しかし、なぜ、人は、いや小説家は、他の小説家をまねしようとするのでしょうか。その答は、なぜ、ことばを覚えるのか、という問いへの答と同じです。人はひとりではいられず、そのため、人は他のだれかを好きにならずにはいられない。そして、だれかを好きになる時、生きものは、そのものと同じものになろうとし、そのために、おこないをまね、ことばをまねしようとするからです。(「レッスン6 あかんぼうみたいにまねること、からはじめる。生まれた時、みんながそうしたように」)
村上春樹の『羊』とチャンドラーの『お別れ』とは、その渇いた文体が似ている。
言ってみれば、それは、母親と子供とで声の質が似ているようなものだ。
しかし、もっと大切なことは、『羊』と『お別れ』の「世界の見方」が似ているということだ、と著者は考察している。
どちらの小説の主人公も「人は他人を理解できない」という感覚を持っている。
だから、彼らは、他人に対して距離を取ろうとするが、時にその距離を一気に縮めてしまいたいという感情を否定できないでもいる。
こうした「世界の見方」こそ、村上春樹がチャンドラーから真似たものなのだ。
言葉にしてしまうと簡単のようだが、世界観を真似ることは文体を真似ることのように容易ではない。
文学の本質を理解できなければ、世界観を共有することさえ難しいからだ。
本書は、おもしろ楽しく、そうした文学の本質についての鍵を提示してくれる。
小説を書くことができるようになるかどうかは不明だが、より深く、小説を読むことができるようにはなるかもしれない。
書名:一億三千万人のための小説教室
著者:高橋源一郎
発行:2002/6/20
出版社:岩波新書