井伏鱒二「集金旅行」読了。
本作「集金旅行」は、1935年(昭和10年)5月及び7月『文芸春秋』に発表された中編小説である。
この年、著者は27歳だった。
作品集としては、1937年(昭和12年)に版画荘から刊行された『集金旅行』に収録されている。
岩国、下関、博多、尾道、福山
本作「集金旅行」は、一組の男女が、街から街へと旅して流れてゆく、いわゆる「ロード小説」だ。
最初に二人が訪れた街は、河上徹太郎の故郷・山口県岩国である。
私たちが岩国の町についたとき、この街並みから受けた最初の印象はどことなくひんやりとした町じゃないかという感じであった。大通りを通り抜けて行くと向うにこんもりと木の繁った岡が見え、岡の手前には河瀬の音をたてている大川に算盤橋が架っていた。(井伏鱒二「集金旅行」)
物語の語り手である<私>は、この算盤橋の下で魚釣りをして、小さな鮠を一釣り上げた。
次に、二人は山口県下関に宿を取った後、西戸岬や香椎や箱崎という土地を遊覧してから福岡県博多に入る。
博多駅についたのは夜の七時すぎであった。駅前にはビアホールや食堂や人形を売る店や玩具屋がならび、駅前広場にとまる電車には、一台ごとに桜の花模様の飾りがついていた。電車の行くさきに桜見物の名所があらわれるという意味の広告なのであろう。(井伏鱒二「集金旅行」)
しかし、<私>は夜桜見物をすることもなく、<水たき料理新三浦>という店でひどく飲みすぎて、宿屋でとんでもない不始末を演じてしまう。
それから二人は広島県尾道まで移動する。
私たちの連れて行かれた旅館は、駅から十町あまり離れている和田屋という旅館であった。玄関さきの日向に、白い顎鬚を蓄えた老人が蘭の鉢植に如露の水をそそいでいた。玄関のなかはほの暗く、奥行の深い薄暗いところから、明るいレモンイエローの洋服を着た年ごろの娘が現われて私たちを迎えてくれた。(井伏鱒二「集金旅行」)
ここで<私>は、山波村という海浜の漁師町を訪ねている。
最後に二人が向かったのは、井伏鱒二や福原麟太郎の故郷である広島県福山で、ここが、この物語の最終地点ということになる。
私は福山駅前の広場で車をとめさした。コマツさんも目をさました。「あら、福山駅だわ。ここの駅の近くの旅館、あたくしには嫌やな思い出があるから止しましょう」そういってコマツさんは車から降りると急いで歩き出した。(井伏鱒二「集金旅行」)
要するに、二人は、山口県から広島県へと中国地方を旅していたわけで、土地土地の特徴が丁寧に描かれているあたり、本作「集金旅行」は紀行小説と言っていい。
この文庫本を持って、中国地方を旅してみたいと思っても、決して無茶な考えということにはならないだろう。
旅愁を誘う地元の人たちの言葉
もちろん、二人は物見遊山の旅をしているわけではない。
<私>は、滞納家賃の集金人として指名を受けて、各地に暮らす債務者を訪ねて回っているのであり、独身美女<コマツさん>は、過去に嫌な思いをさせられた男たちから慰謝料を回収するため、<私>に同行しているのだ。
当然、行く先々では、思いがけない事件が発生して、<私>を困惑させるし、それが、この物語の大きなストーリーとなっているのだが、何よりも本作の大きな魅力となっているのは、ローカルな登場人物たちの味わい深い会話だろう。
例えば、桜の見ごろだった博多では、旅館の女中が夜桜見物を勧めてくれる。
「あれは、あなた西公園でござすたい」西公園というのは城跡なのかとたずねると、城跡ではないそうである。「夜桜の電気でござす。行ってみなざっせんな。ほんに、お客さんよござんすもんなし。おともしまっしゅうたい」(井伏鱒二「集金旅行」)
旅をしていて、地元の人たちの会話くらい、旅愁を誘うものはない。
言葉が、土地独特の訛りを持っていれば、なおさらだ。
私も寝床に腹這いになって、女中とコマツさんの対話をきいていたが、女中のしゃべるこの土地の言葉づかいは、ふっくらとした感じで風貌も大きく、ひとかどの風情があった。「へえ、そらお客さん御遠方で、おくたびれでございましつろう」「あす、あたくしたち、とても早く起きるわよ」「へえ、よござす。何時でよござすな」(井伏鱒二「集金旅行」)
もしかすると、井伏さんは、地方の言葉を書きたくて、この「集金旅行」という作品を書いたのかもしれない。
<私>と一緒に、日本各地の集金旅行を、もっと楽しみたいと思った。
作品名:集金旅行
著者:井伏鱒二
書名:集金旅行
発行:1970/03/25改版
出版社:新潮文庫