岩本素白「素白先生の散歩」読了。
本作「素白先生の散歩」は、2001年にみすず書房から刊行された随筆集である。
なお、著者の岩本素白は1883年(明治16年)生まれ、1961年(昭和36年)に78歳で亡くなっている。
独りで歩いた素白先生の散歩
本作『素白先生の散歩』は、岩本素白の遺した随筆の中から、散歩に関するものをピックアップして収録した、精選随筆集である。
どうして散歩に関するものを集めたのかというと、岩本素白の唯一の趣味が散歩であり、随筆作品にも散歩に関するものが多かったためと思われる。
一日早稲田学報の亀井君が来て、「わが楽しみ」と云う題を課し、日常趣味として楽しむ所を語れと云う。然し、酒は飲まず煙草は吸わず、碁も打たず将棋も指さず、謡も謡わず茶も立てぬ、世間的に云えば無趣味極まる男である。いささか読書を好んで、六十年来日夕文字に親しんで来たが、それも大方無用の書に過ぎないし、而もこれは吾々にとっては仕事であって、趣味とは云えぬかもしれない。その外と云うと、暇さえ有れば独り杖を曳いて気儘に歩くだけの事である。(岩本素白「孤杖飄然」)
しかし、素白先生の場合、この「暇さえ有れば独り杖を曳いて気儘に歩くだけの事」というのが徹底している。
私はいつも独りで歩く。気が向けばふらりと机を離れて杖を取る。朝も夕も、月の晩には更けても出る。旅と名付けて善いかも知れぬ三日四日、七日八日の泊りにも、気分の上からは夕方の散歩のようにして出る。(岩本素白「孤杖飄然」)
「七日八日の泊り」まで、夕方の散歩と同じ気分でいるのだから、素白先生の散歩は、やはり徹底しているということになる。
そして、素白先生のそんな散歩随筆を究めたものが、本書『素白先生の散歩』ということになると、この本の凄さが、少しは伝わってくれるかもしれない。
それにしても、どうして素白先生は、独りの散歩を好んだのであろうか。
まことに人の性情というものは、何とも致し方のないものである。好みが違えば、自然人と行を共にすることが出来ない。若い時から大方独りで歩いていた。(岩本素白「独り行く」)
一口に散歩と言っても、散歩に求めるものは、人それぞれによって違う。
「名勝史蹟数多く経廻って、勿論様々の深い印象は受けたが、正直に云うと、沁々と胸ふかく感じたのは、それ程人の言い騒がぬ土地であり、場所であり、物であった」という素白先生と、好みを同じくする散歩愛好家は、あるいは稀有だったのかもしれない。
郷愁を好んだ素白先生の散歩
素白先生の散歩には哲学がある。
私は何時もこういう何の奇もない所を独りで歩く。人を誘ったところで、到底一緒に来そうもない所である。独りで勝手に歩いているから、時々人と違ったことも考える。(岩本素白「白子の宿」)
「独りで勝手に歩いているから、時々人と違ったことも考える」というところに、素白流散歩術の奥深さを感じ取ることができる。
素白先生は、きらびやかな都会よりも、郷愁を誘う街並みを好んだ。
地方人の古蹟を愛する心は、その古蹟が依然として残存しているところから出発し、都会の人の名所を愛する心は、それが日々に壊滅して行くところから発している。この意味で都会人の愛郷心は、感傷と一つになっているとさえ言い得る。(岩本素白「街の灯」)
そのためか、素白先生の散歩随筆は、郷愁を感じさせる文章が多い。
少年の日の縁日の記憶を辿った「街の灯」や、品川で暮らした少年時代を回想した「東海道品川宿」など、幼い日に見た街の光景は、もはや民俗学的な史料とさえ言えるものだろう。
然し、今から永い「時」が経って、それが衰え寂びれた、と云おうより、本然の静かな姿にかえった時、また私のような妙な男が遣って来て、古い昔の跡を尋ね、俗信でもなく、また所謂信仰というのでもなく、頭を下げ、賽銭を上げて、ただ無心に花の開落を眺めるように、静かにそれを眺めるであろう。(岩本素白「古祠」)
散歩随筆といえば、永井荷風の「日和下駄」が有名だが、素白先生の散歩随筆も、荷風に負けず劣らずマニアックで面白い。
昭和20年5月25日の東京大空襲で、蔵書を失ったときの文章は、散歩随筆とはまた違った意味で切ない。
翌る日の夜もまたその次の夜も、あちらこちらの本の積んであった場所は何時までも火が消えないで、その火はまた妖しくも美しいものであった。私は今更、人の命のみではない、物の命ということに就いても深く考えさせられたのである。(岩本素白「守部と辨玉」)
戦争にしろ、自然災害にしろ、自分の蔵書が一斉に焼かれてしまうことを想像するのは辛い。
「あちらこちらの本の積んであった場所は何時までも火が消えないで、その火はまた妖しくも美しいものであった」という一文からは、燃えていく蔵書の呻きのようなものさえ感じられないだろうか。
書名:素白先生の散歩
著者:岩本素白
編者:池内紀
発行:2001/12/07
出版社:みすず書房(大人の本棚)