サマセット・モーム「かみそりの刃」読了。
僕が、この小説を読んだ理由は、村上春樹の小説やエッセイに出てくる「どんな髭剃りにも哲学がある」という言葉は、この小説からの引用だと、誰かから聞いたから。
結論から言うと、「かみそりの刃」の中に「どんな髭剃りにも哲学がある」という言葉は登場していない(つまり、ガセネタ)。
もっとも、「かみそりの刃」は、小説として非常に面白いものだったので、ここに記録を残しておきたい。
鋭い剃刀の刃を歩いて渡ることが難しいように、悟りの境地に至ることもまた難しい
鋭きかみそりの刃はわたるに難し。済度への道も亦しかく難しと、賢者たちはいう。カタ=ウパニシャッド
小説の題名の「かみそりの刃」という言葉は、小説本文が始まる前の、巻頭で引用されている言葉だが、この「カタ=ウパニシャッド」というのは、インドで有名な古典のひとつで、「輪廻」とか「梵我一如」のような、古代インドの哲学を分かりやすく現したものらしい。
言葉の意味としては、「鋭い剃刀の刃を歩いて渡ることが難しいように、悟りの境地に至ることもまた難しい」ということで、確かにこの小説は、戦争を体験した一人の若者が、まるで剃刀の刃を渡るように、悟りの境地を求め歩くという内容になっている。
ちなみに、小説本文の中に「かみそりの刃」という言葉は、登場していない。
ところが、ついさっきまで朗らかに人生を楽しんでた奴が、あっという間に死んじまってるんだよ。
ところが、ついさっきまで朗らかに人生を楽しんでた奴が、あっという間に死んじまってるんだよ。なんという残酷、なんという無意味なんだい。いったい人生とはなんだ? 人生なんて、いったい意味があるのか? それとも、ただ盲目の運命がつくり出す悲しい過誤にすぎないんじゃないか、ついそうした疑いも湧こうというもんじゃないかな。(モーム「かみそりの刃」)
物語は、語り手である作者「モーム」の視点で綴られているが、主人公となっているのは、「ラリー」という一人の若い男性である。
ラリーは、それまで普通の若者だったのに、第一世界大戦で親友を亡くした後は、人生とは何か?ということばかりを考えるようになった。
仲間のいるシカゴに戻ってからも、就職することなくブラブラとして、婚約者イザベルの肉親たちから非難を浴びるが、あくまでも自分探しの旅を続けるために、ヨーロッパを放浪する。
やがて、ラリーは「物質的な幸福よりも精神的な幸福の方が大切である」という悟りを得て、アメリカへ戻ることになったところで物語は終わるのだが、物質文明社会として急激に発展しつつある現代アメリカで、ラリーの生き方は、悟りを得ることと同じように難しいだろう。
あのブルックス・ブラザーズの広告に出る青年とくらべても、決して劣けはとらぬ、実に小ざっぱりとして清潔なんですね。
そう、別に大男じゃありませんね。痩せもせず、肥ってもいず、顔色は浅黒くて、あまりよくない。髭はなくて、頭は白髪を坊主頭に刈りこんでましたっけ。身につけるものといっては、腰布一枚だけ。それでいて、あのブルックス・ブラザーズの広告に出る青年とくらべても、決して劣けはとらぬ、実に小ざっぱりとして清潔なんですね。(モーム「かみそりの刃」)
この物語は、主人公であるラリーの経験を、ラリーの言葉を通してモームが再構築しているといった構成なので、自然と会話文が多くなっている。
時には、ラリーを取り巻く仲間たちの生き様も、物語を進める上で重要な要素になっているので、作品として立体的で、ストーリー性に富んでいる分、通俗的だという感想を持たないでもない。
もっとも、婚約者イザベルとの破綻をはじめとするラリーの女性遍歴は、彼の自分探しの旅の記録でもあり、こうした女性たちとの波乱の関係の中でこそ、ラリーは答えを得ることができたのかもしれない。
インドで出会った行者は、ブルックス・ブラザーズの広告に登場している青年と較べても清潔だと思われたが、物質的な幸福感の象徴こそが、現代アメリカを代表する「ブルックス・ブラザーズ」だったというところが面白い。
自分探しの若者の物語というよりも、第一大戦後のアメリカの行く末を占っているような、そんな小説なのかもしれない。
書名:かみそりの刃
著者:サマセット・モーム
訳者:中野好夫
発行:1995/2/23
出版社:ちくま文庫